地面の記憶





今回の東日本大震災は、東日本大津波といってもいいほど、その被害のほとんどが津波によりもたらされたものである。「未曾有の大津波」とはいっても、少なくとも現在の日本人や日本文化に繋がる人たちが住みだしてから、同程度の大津波が二度は来ていることが、地層調査などから明らかになった。その記憶は、何らかの形で伝承されていたはずだ。しかし、それが途切れてしまったことが、被害を大きくした。

阪神・淡路大震災では、直下型とはいえ、20mと離れていない距離で、甚大な被害があったエリアと、ほとんど被害がなかったエリアが接しているところも、多く見られた。今回の地震での、内陸部での液状化現象と同じで、大きな被害は、かつて池や沼、河川だったところを、比較的近年になってから埋め立て、土地として利用したところに、典型的に見られる。

地面には、歴史が刻まれている。その土地には、その土地なりの歴史を反映した「地味」がある。それは、長い間そこに住む人々の間で共有され、伝承されてきた。バブル崩壊以降、運用して生み出す利益を持って、土地の資産価値とする考えかたが主流になった。しかし、それまでは「地味」も含んだ地価の出し方が一般的だった。そういう意味では、刻まれた歴史は、地価の中に反映されていた。

並んでいる土地でも、「地味」が違えば、地価が異なる。これが、本来の地価の意味だ。短期的な利用価値だけではない。元の河床を埋め立てた土地は、その隣の元から陸地だったところに比べれば、当然地価が低い。すなわち、地価にはその土地の抱えているリスクが反映される。その土地を買ったり、借りたりする方も、当然、そのリスクを勘定に入れて判断する。

危険なところ、ヤバいところは安くなる。安全なところ、きっちりしたところは高くなる。工場跡地などで、土壌が廃棄物で汚染されている危険性がある場合など、もし汚染が発見されても問題のない利用法なら、価格が安い分だけ「お値打ち」である。まさに、土地にも「市場原理」が働いていたわけだ。ハイリスクでも、安ければハイリターンとなり、商品性が出てくる。ローリスクなら、価格が高くなる分、ローリターンとなる。

コレがわかった上ならば、危険な土地でも、それなりに利用価値があり、金になる。その分、リスク対応は自己責任となる。ある意味、スラム街などその際たるものだろう。みんなが敬遠するような土地は、値がつかないことすらあるが、それなりに街中にあるのなら、そこにしか住めない人たちが集まってくる。貧しいなりに、リスクを取ることで、居場所を確保できることになる。

一方、地面の記憶を消すことに関しては、高度成長期以降、行政を中心として進められた「再開発」の影響も大きい。何かにつけて、行政は「画一化」を欲するものである。それだけでなく、行政にとっては、「地味」の違いは困りモノであり、大規模再開発により地面の記憶を消し、歴史を書き換えようとしがちである。再開発以後、住民自体も入れ替わってしまえば、本当に歴史がなかったことになってしまう。

地面の記憶が残っていれば、津波に襲われる危険性の高い地域に、街が作られるコトはありえない。地形そのものが同じである以上、物理的な被害は、かならず再発する。漁港施設や関連の工場などが、海岸沿いの低地に作られることはあっても、住宅が林立することにはならないだろう。実際三陸沿岸でも、先人の教えを守ることで、被害を防いだり、最小限にとどめたりできた集落が、いくつもある。

そのような地面の記憶を消し、あたかも安全なように思わせて、そこに街を作ってしまったというのは、まぎれもなく人災である。その限りにおいて、国や地方自治体の責任は免れない。その意味では、危険なところは危険であるとわかるままにしておいたほうがいい。それを理解した上で、自己責任で住まうのなら、それでもいいだろう。その場合、国や地方自治体は被害を救済する責任はない。

元来、そうなのだ。全て、自己責任で行動するのが原則。それにしても、無駄な公共事業に税金を投入して土地の記憶を消し、その結果行政の責任が生じて、その被害の救援のためにさらに税金を投入しなくてはならなくなる。納税者にとっては、まさしく踏んだり蹴ったりだ。津波の被害は、官僚たちがもたらした人災である。我慢することなどない。怒りは役人にぶつければいい。日本の不幸の原因は、全て役人たちにあるのだから。


(11/07/15)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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