手段と目的





幕末以降、近代日本の歴史においては、不平等条約の改正だったり、富国強兵だったり、西欧に追いつき追い越すだったり、その時代ごとに、まがりなりにも目標といえるモノがあった。目標自体が、戦略的なものか、戦術的なものかという視点もあるが、それが戦術的なものであっても、ひとまず目標がはっきりとしていれば、そのための手段は選びやすいし、評価もしやすい。

だからこそ日本においては、高度成長から安定成長に変わる1970年代あたりまでは、政治にしても経営にしても、それなりに目標を立てることができた。かつてのような壮大な「坂の上の雲」ではないにしろ、ドルショック、オイルショックの克服とか、低賃金・輸出型経済から内需主導への転換とか、小ぶりの目標は持てていた。そして、「一億火の玉」となってその問題解決に向かっていったことを記憶している方も多いだろう。

問題は、1980年代からである。日本の目標がなくなってしまったのだ。そして、目標が見えなくなると、組織や個人のレゾンデートルとして、手段そのものが目的化し、「それをやるために組織(個人)がある」ことが常態となってしまった。まずこの変化が起こったのは、官僚たちだ。かつて日本の国は貧しく、資源もなく、限られたリソースを無駄なく使わなくては、経済発展など望めない状態だった。

この時代において、リソースの最適配分を行うためには、中央集権型の意思決定が効率的である。1970年代に入って、開発途上国も、「開発独裁」型の政権が現れた国ではテイクオフに成功し、いまやエマージング・カントリーとして世界の成長を支えていることが、この事実を証明している。日本における戦後復興の「傾斜生産方式」などは、世界的に見ても、その先駆的な例だろう。

すでに何度も語ってきたように、日本が豊かになり、安定成長の時代に入ったことで、中央集権的な意思決定は意味を失う。市場原理という「神の見えざる手」に任せたほうが、よほど最適配分が可能になる。これとともに、存在意義を失った官僚および官僚組織は、自己保身に走る。この結果生まれたものが、「利権の80年体制」である。目的のための手段であった、官僚機構そのもの維持発展が、組織のレゾンデートルとなってしまった。

次に変化がおこったのは、企業においてだ。その時期は、バブル崩壊以降、グローバル化の進んだ1990年代ということができる。日本企業にも、グローバル基準の戦略的経営が求められるようになると、元々戦略性とは無縁の経営を行ってきたことが露呈した。全体最適がなく、部分最適しかない。右肩上がりの波に乗っている間は、問題があらわにならなかったモノが、一旦神風がやんでしまうと、組織の自己目的化が起こるのは歴史の必然だ。

そして、政官財で最後にその波がやってきたのが政治の世界だ。政治家が権力を握る目的ははっきりしており、なかなか目的の手段化は起こらなかった。権力を握ることで、自分たちの政治的な理念を実現する、というのがもっとも筋の通った形だが、労働組合出身や圧力団体出身の議員のように、自分たちの属する集団の利益を追求するというのも目的だし、個人的な私財を肥やすというのも、その倫理的評価はさておいても、目的としては明解だ。

しかし、その政治家まで、権力の座にあること自体が目的という状況になってしまった。もっともそれは、菅首相の出自に問題がある。市民運動家、古いタイプのNPOなどは、「反対のための反対」をしがちで、手段が目的化する危険を孕んでいる。実際、環境保護、自然保護の団体が、テロリストのように破壊活動自体を目的としてしまうことも多い。日本の捕鯨船に「神風攻撃」を仕掛ける、シー・シェパードなどが代表的だ。

元来体制変革の手段として暴力を捉えていた新左翼が、その末期になると、内ゲバのような「暴力のための暴力」に走り、その世界に耽溺してしまったのも、精神構造としては同じものがある。机上の理想論だけで理論構築を行い、その理論を原理主義的に追求してゆくと、どんどん現実からは遠ざかって行く。元来、社会運動や革命運動は、現実の社会や民衆と離反しては意味がない。

しかし原理主義者は、最初から現実が眼中にない。必然的に、行き着くところまで行くと、手段が目的化し、犬のマーキングのような示威行為しかできなくなってしまうのだ。そういう人間を、首相に選んでしまった、あるいは、選ばざるを得なくなるような状況にまで、日本の政界は堕落してしまったということだ。これは決して個人の責任ではなく、政界全体としての責任である。

しかしそれも、開国以来高度成長期まで続いたスキームの最後の砦が崩れ去った証、と思えば決して悪いことではない。もう、こういう茶番は通じないことが、誰の目にも明らかになったという意味では、それなりに意味もあったということだろう。歴史上最低の首相は、歴史の転換点を身を持って示した。もはや、手段を目的化しても、誰が見ても「何もしていない」と思われるだけだ。それはそれで、一つ時代が進むきっかけではある。


(11/07/22)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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