言論の自由





民主国家では、自分がどんなに正しいと信じていても、社会のヴォリュームゾーンから支持されない意見では、社会的に影響力がない。同様に、自分がどんなに間違っていると思っている意見でも、そちらが多数の支持を得ているのなら、自分は「少数意見」と思わなくてはならない。いろいろな意見が認められるのが民主主義だが、人々の支持により、その意見にランキングがつけられるのもまた民主主義だからだ。

はじめにお断りしておくが、ここをいつも読んでいらっしゃる方ならご存知と思うが、ぼくは決して民主主義の信奉者ではなく、民主主義が至高の社会システムとは思っていない。しかし、民主社会の中で人々と共生していくためには、民主主義のルールを守ることは、最低限の義務だと思っている。また、意見や価値観の多様性については、これを極めて重視している。対立する意見を力で圧殺することなど愚の骨頂である。そんなものは、モンティパイソンよろしく、ギャグのネタにして笑い飛ばすほうが余程スマートだ。

さて民主主義の基盤は、言論の自由にある。多様な意見が認められるのが、民主社会である。そして言論の自由においては、結果の平等ではなく、機会の平等が重要である。あらゆる意見に対して、平等に発言機会が与えられることが、言論の自由だ。その結果、当然、多くの支持を集める意見と、少数の支持しか得られない意見とが生まれる。それもまた、民主主義の必然であり、その結果を受け入れることが、機会の平等を担保することになる。

大事なのは、多数の意見を持つものは、数を背景に奢ることなく、少数者の立場も尊重することと、少数の意見を持つものは、自分達が少数者であることを、客観的に受け入れることである。この二つが満たされれば、極めて民主的な社会ということができる。すなわちどんなオピニオンであろうと、人々のフィルターにかけられ、選択を経なくては、社会全体を代表するものとはならないのだ。

しばしば、マスコミやジャーナリズムが、輿論に影響を与えられると思っている人がいる。しかし、言論の自由が貫徹している社会では、そんなことはありえない。輿論は、あくまでも人々の側が決めることであり、より多くの人が共感して初めて輿論となるからだ。したがってマスコミが輿論に影響を与えられるのは、言論の自由が貫徹しない、民主的土壌が熟成されていない社会に限られるが、それにも限度というものがある。

今年の春、ジャスミン革命と呼ばれたチュニジアをはじめ、エジプトのムバラク政権の崩壊など、アラブ圏で民主化の動きがあいついだ。そこでは、ツイッターやフェースブックの果たした役割が強調される。それは、これらのアラブ諸国では厳しい言論弾圧が行われ、言論の自由がなかったからだ。インターネットが普及する前から、独裁国家など非民主的な国々では、人々はマスコミを信用せず、親しい人の間での口コミだけを信じる傾向が強かった。

アンオフィシャルな情報しか信じられないというのは、言論の自由がない、非民主的社会に共通する特色である。しかし、そういう社会でも、受け手の側には、情報を選り分ける能力がちゃんと備わっているからこそ、お上の言うことをそう易々とは信じないしたたかさが生まれる。ましてや、言論の自由がある社会では、受け手は情報の自由な選択ができる。人々に対する情報の影響力は、常に受け手の側が決めることなのだ。

日本でも、インターネットを利用して、ジャーナリスティックな情報発信を行う、ネットジャーナリストは大勢いる。SNSでも、ツイッターやフェースブックでも、そういう情報発信活動を行っている人はたくさんいる。しかし、それは一部に熱烈な支持者やフォロワーを集めているものの、社会的影響力は小さい。それは何より、彼らの発信している情報が、多くの人々にとっては関心外のことだからである。

成熟した社会では、マスコミは影響力を持たない。民衆の方が、選ぶ権利を持っており、なおかつそれを自覚しているからだ。こういう社会では、あらゆるコンテンツは、マスメディアだろうが、インターネットだろうが、パッケージだろうが、全て人々によって選ばれてはじめてメジャーになれる。マスコミでどんな意見を流しても、チャンネルを変えられたり、スイッチを切られたりしたら、影響力など持ち得ない。

そして、成熟した社会ほど、人々の選択理由は、論理的な「正邪・良悪」ではなく、感覚的な「楽しさ・面白さ」に基づくものとなる。より多くの人々に、「楽しさ・面白さ」を提供できなければ、そのコンテンツは決してマスたりえない。しかし、そうでなくても、少数意見として支持を集めることはできる。自分達が少数者であることを受け入れれば、その居場所が認められるのも、民主社会のいいところである。

しかし、そこで自分たちの意見「だけが」正しく、多数が支持しないという事実を受け入れられないと主張することは、民主主義を真っ向から否定する行為である。それはそれで、一つのオピニオンではある。だが、それを押し通すには、他の人々とインタラクションを持たない、孤立した世界を作るしかない。民主主義を否定するヒトは、民主社会の中では居場所がないからだ。

民主社会においては、あらゆる意見は、「自分と違う意見を受け入れる心の余裕」を持つ限り、それなりの居場所を与えられる。しかし、その居場所が自分の望むものと違っていたとしても、それを受け入れ、それに甘んじなくてはならない。これに棹を挿すことは、社会の多くの人々に向かって敵対し、矢を放つことと同値である。それは、言論における「自爆テロ」というにふさわしい。そして、民主社会は、テロリストを決して許さない。


(11/08/12)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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