発想と行動





発想は社会秩序に囚われる必要はない。しかし、行動は社会に受け入れれられる必要がある。この二つが両立したときにこそ、進歩が生まれる。この二つがウマくバランスしない社会には、停滞しかない。ある意味、これは人類の歴史とともにある、黄金のルールである。これを何万年もウマくやってきたからこそ、人類は発展し続け、文明を築いてきたということもできる。

ところが、日本人には、この二つを切り離して考えられなかったり、動けなかったりするヒトがほとんどである。自由な発想をするヒトは、行動でも社会の規範から外れたコトをしたがる。社会の規範を守る人は、発想も社会通念の範囲を超えることがない。定説を逸脱するとしても、高級官僚のように、法律の抜け穴を利用して裏でこそこそやるというのが関の山である。

海外においては、洋の東西を問わず、この二つを独立に捉えられる人たちの方が多い。もちろん、社会を逸脱しつつ自由な発想をする人もいないワケではないが、数的には少数である。だからこそ、社会秩序は保たれている。違いは、生活においては社会通念を尊重しつつも、発想が社会通念に囚われていない人が多い点である。こういう人が多いほど、社会に活力が生まれる。

グローバル化を叫ぶのなら、外国語の習得よりも、この発想法の転換のほうが、より重要な先決問題である。どんなにいい武器を与えたとしても、自分達が何のために戦うのか、何を守りたいのかがわかっていなくては、戦いにならない。逆に、戦う意欲、守る意欲が圧倒的にまさっていれば、ベトナム戦争のように、火力、兵力で劣勢な側にも、戦いに勝てるチャンスはある。

このような意識は、居住・生産という面では極めて条件のいい日本列島の上に、各時代においてもそこそこレベルの高い文化や技術を持った人たちが住み着いていたためである。要は、それほど努力や苦労しなくても、そこそこのレベルの社会や生活は、容易に実現できてしまうのだ。これを千年以上やっていれば、ある意味、努力をしないメンタリティーが育つのもうなずける。

有史以来、地で血を洗うような内戦が起きていないのも、そのためだろう。戦国時代というのもあるにはあったが、その戦い方は、全ての武将とその軍団が、息つく暇もなく連戦し続けるようなものではない。大きな合戦ほど、勝負の成り行きを脇から見ている人々のほうが、圧倒的に多かった。いや、切羽詰った者だけが、しかたなく戦っているといったほうがいいだろう。

そして、形勢がはっきりしたところで、勝ち馬に乗るのである。これこそ、最も日本人的な行動といえる。今でも、長いものに巻かれ、強いものに擦り寄り、利権のおこぼれに預かるという行動様式を取る人は多い。許認可行政のバラマキ利権が生まれるのも、それをありがたがり、それに群がろうとする人々がたくさんいるからである。「自分でやるより、金魚のフン」なのである。

まあ、国際競争力みたいなことを言わないのなら、それはそれで一つの生き方だし、他人がとやかくいうことではない。国全体がコバンザメだって、その国民がそれを望むのなら、口を差し挟むのは、余計なお世話である。この場合重要なのは、その人なり、その国民なりが、自覚的にその道を選んでいるかどうかである。わかってやっているのなら、それはそれでけっこう。

しかし、どうもこの国民は、それをわかっていないらしい。わかっていたら、無謀な戦争もやらなかっただろうし、無謀な海外進出もやらなかっただろう。最近は系列化が進んできたとはいえ、そもそも自動車メーカーや電機メーカーが、この国内に十数社もあるということ自体がおかしい。隣の庭の青さに目が眩んで、二番煎じ、三番煎じを繰り返していった結果以外の何者でもないからだ。

もし、本気でグローバルスタンダードで行きたいのなら、人を変えるしかない。日本人にも、社会秩序に囚われない発想と、社会に受け入れれられる行動を両立させている人はいる。トップから順に、そういうタイプの人間と入れ替えていけばいいだけだ。と考えると気付くだろう。そういう人だったら、日本人で探すより、海外で探したほうが早い。それでいいのだ。


(11/08/26)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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