「見える」マーケティング





マーケティングの本質については、多くの人が、いろいろな視点から語っている。そのどれもが一理あるとは思うが、いずれにしろ個別具体的な「極意」を超えることは難しい。もともと、マーケティング自体が経験則を集めた実学であり、ヨーロッパでは長らく「学問」としてはみなされなかった。そこには体系化された戦略的理論はなく、各論としての戦術論を大成したものが、その理論の全てである。

さて、そこで語られている戦術論は、それぞれブラッシュアップされ、適応すべき場合さえわきまえれば、きわめて「正しい」答えを導き出すことができる。それはそれで便利なのだが、それらの「極意」に共通して流れる「通奏低音」が何なのかという、極めて素朴な疑問が湧いてくる。「統一場理論」ではないが、マーケティングの本質を一つの体系で見極めたいという欲求だ。

それは、たやすくできることではない。だからこそ、そういう論点が極められていないのだ。私の少ない経験から判断すると、それは「人格化」にあるとみている。営業でも、製品でも何でもいいのだが、顔の「見える化」を行うことがマーケティングの本質である。ともすると、大組織でのビジネスは、肩書や職能がビジネスをしているようになりがちだが、それではモノやサービスは売れない。

このギャップを埋めるモノが、マーケティングという発想である。これは、ビジネスの単位が個人商店だった時代には、マーケティングという発想がなく、20世紀に入って大企業による大量生産・大量販売が始まってからマーケティングが必要となってきたこととからも理解できる。また、組織対組織で金が動き、個人の存在が比較的小さくなる「BtoBビジネス」では、マーケティングという発想が薄いこととも呼応している。

では、「人格化」とは何か。具体的な例で考えてみよう。まずは「ネットショッピング」の場合である。ネットショッピングというと、売る商品は同じだし、配達するのもヤマトか佐川だし、価格と在庫量以外差別化がしにくいと思われがちである。しかし、実際のマーケットを見ると、必ずしも安さだけで選ばれているワケではなく、多少高くとも信頼感のあるショップが選ばれる傾向にある。

この違いは「人格化」から生まれる。信頼感のベースは、「顔が見える」ことにある。名の知れた企業がバックにあったり、実際のリアルな店舗も経営したりしているところは、逃げたりダマしたりしないだろうという安心感がある。また、ネット専業であっても、情報を積極的にディスクローズしたり、店長がブログ等で実際に顔を出したりしているところは、ある種の「責任感」が消費者に伝わり信頼度が増す。これは「人格化」である。

また、ブランド・マーケティングの場合を考えてみよう。ブランド価値というと、問題になるのはトラブルや不祥事が起きたときのブランドの毀損である。同じ「事件」が起きても、ブラックボックスで実態が見えない企業では、きっと裏で何かをやっているだろうとか、やっぱりブラック企業だったとか、ウワサがウワサを呼び「炎上」するため、ブランドイメージも一発で崩壊する。

しかし、顔が見えている企業なら、同じ「事件」が起こったとしても、それが企業体質に根差す構造的問題とはみなされず、どの企業にも起こりうる、単なる事故として捉えられる。それだけでなく、事後処理に誠心誠意対応すれば、良心的な企業だとしてかえって同情を呼び、「タイレノール事件」のように、長期的に見れば、結果的にブランドイメージの向上に繋がることもある。顔が見えるブランドは、不祥事にも強いのだ。

さて、オーナー企業、ファウンダーが健在なベンチャー企業には、個性的なマーケティング戦略、インパクトのあるブランド戦略をとるところが多い。マーケティングに造詣の深いトップがいて、直接陣頭指揮をしている場合もあるが、そうではなくマーケティング部門が権限を握っている場合でも、あきらかにマーケティングに長けているところが多い。それは、企業体質として「人格化」が血肉となっているからなのだ。

それに対し、常々指摘しているように、日本の組織の多くは、もともと「寄らば大樹の陰」の組織人たる「サラリーマン」によって構成されている。よく日本の文化的特徴として、「出る杭は打たれる」ことが指摘されるが、それ以前に日本型組織では、「出る杭になる人材がいない」のが問題である。日本のメーカーでは、未だに「マーケティング以前」のプロダクトアウトのままというところが多いが、その原因はこういう風土にある。

果たしてそういう日本企業で、「人格化」はできるのだろうか。実は、これはマーケティングにとどまらない、極めて本質的な問題である。グローバル化を目指すにせよ、国内専業での縮小均衡を図るにせよ、組織としての企業が生き残るためには、避けては通れない。それは、「人格化」を実現するためには、「自立・自己責任」なスタンスが不可欠なものだからだ。まあ、そのくらいの荒波を受けて、企業の数が減ってくれないと、日本そのものが沈没してしまうのだが。


(11/09/02)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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