日本人は勤勉か





「日本人は勤勉」というのは、半ば定説として、枕詞のように扱われるコトが多い。だが、定説とは疑うためにある。果たして本当に日本人は勤勉なのだろうか。確かに、「三丁目の夕日」ではないが、高度成長を迎えていた昭和30年代の日本人については、そういえるかもしれない。しかし「失われた10年」以降の日本人は、必ずしも勤勉とはいえないし、勤勉さについては、中国をはじめとする新興国の皆さんのほうが余程勤勉である。

昨今、若年層が就職難といわれている。その一方で、新卒に求人をかけても、ほとんど人が集まらない企業もたくさんある。全体としては、この状況下でも、就職難ではなく求人難なのだ。求人と応募のアンマッチングがあるにもかかわらず、よりおいしい就職口を求めて就職浪人したり、けっきょく非正規雇用に走る若者など、とても勤勉とはいえない。勤勉なら、多少希望とは違っていても、次善の策で就職先を選べるはずだ。

その一方で、日本人が生真面目であるのは、今でも揺がない事実だ。東日本大震災においても、被災者の整然とした態度や行動は世界的に賞賛されたし、少なくとも民間ベースでは国をあげての支援が行われた。成り行きが危ぶまれた節電も、国民の真摯な対応により、計画以上の効果を挙げた。一神教特有の「神が見ている」という道徳的な縛りがないにもかかわらず、これだけ秩序正しい行動ができるというのは、生真面目さのなせるワザだ。

さて、「生真面目」と「勤勉」は似て非なるものである。しかし、社会が貧しいときには、この両者が一致する。貧しい社会では、生真面目な人間は、勤勉に行動する。一方性悪な人間は、貧しいときこそ、まじめに働こうとはしない。失うものがない以上、まず考えるのは、そこにある他人のモノを奪うことである。生真面目であれば、他人のモノを奪うより、自分の分をきちんと確保する方を選ぶ。したがって、結果として勤勉になるのだ。

このように、結果として勤勉なのか、本当に勤勉なのかが問われるのは、豊かな社会になってからのことである。「アリとキリギリス」ではないが、豊かになっても、状況に安住せず、努力をおしまないひとが本当に勤勉な性格なのだ。すなわち、性格が勤勉であるということは、セルフ・ヘルプの発想に基づいて行動できることを意味する。つまり「自立・自己責任」であることと同値なのだ。

すでに、ここでも何度も指摘した通り、日本が超利権社会となったのは、80年代に安定成長期に入り、豊かな社会が実現してからである。それまではまだ貧しく、「追いつき追い越せ」一筋で行くしかなかった。限られた資源を限られた分野に集中投下する「傾斜生産方式」をとらなくてはならないほど、社会的リソースの不足していた国では、バラマキ行政などできる余裕はなかったのだ。豊かになるとともに、既得権に浸るようになった事実を考えると、日本人は根が勤勉だとはとても言えない。

しかし、日本人が生真面目なのはまぎれもない事実である。生真面目な人間だが、おいしい利権があると、そこになびいて吸い寄せられる弱さも持ち合わせているのが、日本人らしさなのである。この二つを両立させるためには、何が必要か。それは、利権を得ることを正当化するエクスキューズである。このカギは、生真面目な人間は遵法精神が強いところにある。そう、生真面目な人間は、法律で正当化してしまえば、何でもできるのだ。

生真面目な人間は、「ルールを破ってまで自分がおいしい思いをしたくはない」という、最低限のモラルを持っている。生活が苦しくとも、人のものを盗まないのは、そのためだ。その一方で、ルールを守るがあまり、そのルール自体の正当性・妥当性に考えが及ぶことはない。ルールに則っているのなら、いくらでも臆することなく、おいしい思いにあずかっても、いささかも気が咎めることはない。

生真面目な人間が、堂々と甘い汁を吸うためには、利権・バラマキをルール化してしまえば良いことになる。ある意味、「生真面目な日本人」の代表が官僚である。秀才は、基本的に生真面目だからだ。彼らもまた、ルールを破ってまで何かをやるような勇気はない。そこで、自分の都合のいいようなルールを作るのだ。利権・バラマキを立法化し、そこに天下りのための公益法人を組み込む。まさに官僚たちは、これを実践しているのだ。

官僚組織が、近代日本の組織のリファレンスであった以上、企業も、労働組合も、日本の組織は、みな同じ体質を持っている。そのどれもが、80年代以降、既得権を守り、みんながおいしい思いをいつまでも続けられるようにするためのものとなった。しかし、そのよりどころは、ルールにあることがわかった。そうである以上、ルールを変えてしまえば、生真面目な日本人は、利権に浸るのではなく、豊かになっても勤勉に暮らす可能性がある。もし、日本に未来があるとするならば、その処方箋はここにある。


(11/09/09)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる