制度と人





社会の情報化と、高度成長による脱貧困が、急速に進んだ20世紀後半の日本では、10歳〜15歳ごとに、目にした社会状況が全く変わってしまうことになる。このような場合、後天的にその状況に触れた人間より、生まれたときからその状況の中にいた人間のほうが、その状況を容易に受け入れ、使いこなすことができる。この傾向が特に顕著なのは、メディア接触、情報消費に関するリテラシーの領域であることは、すでに何度も述べた。

テレビが家にやってきた日を覚えている、団塊世代以前の層は、テレビから流れてくる情報を鵜呑みにしやすい。それだけに、テレビに対して信頼や正しさを求める傾向が顕著である。しかし、生まれたときからテレビが家にある、新人類世代以降の層は、ハナからテレビの情報を斜に構えて受け取っている。だからこそ、「つまらない真実」より「面白いヤラセ」の方を評価する。

このような構図は、どの世代の間にも見られる。キーとなるデバイスやコンテンツが違うだけである。新人類世代以前と団塊Jr.世代の間での、パソコン・インターネット(昭和30年代以前生まれは、必要以上にデジタルをありがたがる)。団塊Jr.世代と新人類Jr.世代の間での、ケータイ(今のアラフォー世代はケータイ依存症が多いが、それ以下の世代にとっては、あまたあるコミュニケーションツールの一つでしかない)。

なんのことはない。後天的にそのメディアに触れることになった世代と、最初から一般的な社会インフラになっていた世代との間では、そのメディアが「ハレ」にみえるか「ケ」にみえるかという、構造的な違いがあるのだ。そして、いつまで経っても年齢差が一定であるように、この刷り込みの違いは、一生消えない。これは、何も情報メディアに限らない。クルマもファッションも食生活も、全く同じことである。

たとえば食生活でいえば、年配の世代では「洋食がハレで和食がケ」だが、若い世代では「洋食がケで、和食がハレ」である。この世代差もまた、団塊世代と新人類世代の間が断層になっている。同様に、牛肉と聞いて高級と思うのは、新人類世代と団塊Jr.世代の間に断層があるが、これは80年代の日米貿易摩擦の影響で、牛肉が自由化され、安い米国産や豪州産の牛肉が大量に出回るようになったことが契機となっている。

昨今、若者がチャレンジしなくなった、大きな野望を持たなくなったと言われることが多い。これもまた、この「刷り込み理論」から解明することができる。そのカギは、「経験が先で、情報が後からついてくる」世代と、「情報があふれていて、経験より先に結果を知っている」世代というところにある。では、「情報が経験より先に伝わる」時代は、いつから始まったのだろうか。これには、大きく分けて2つのポイントがある。

一つは、「情報化社会」といわれるような、社会インフラとしての情報化の進展である。それこそ、かつてのニューメディアブーム、マルチメディアブームの頃言われていたように、いつでもどこでもどんな情報でも利用可能なほどに、情報が社会にあふれるようになることで、「当らずとも遠からじ」という、いわば傾向値としての答えが、誰にでも容易に入手できるようになること。この転換点は、電話が個人ベースの日用品となった、80年代初頭と推察される。

しかし、インフラだけでは意味がないのは、まさしくハード先行だった当時のニューメディアブームが、死屍類類におわってしまったことが、何よりも如実に示している。答えが容易に手に入るには、経験の蓄積が前提となる。これには、団塊世代から新人類世代に至る戦後20年間に生まれた層が、高度成長の恩恵を十二分に受け、いろいろな分野で、かつてないほどチャレンジングに活動できたことが大きい。

まさにその象徴が、バブル期に向かう、何でもありの80年代である。有り余る金と、イケイケな社会風潮に後押しされ、この時期はありとあらゆるコトが許され、試された。それとともに、70年代後半以降、日本社会が豊かな安定成長社会となり、それまでのような「急速で大きな変化」が起こらなくなったため、これらのノウハウの蓄積が、今に至るまで腐らずに活きつづけていることも見逃してはならない。東京が世界有数の「三ッ星レストラン」の集積地となっている理由も、ここにある。

別に、怠惰なワケでも、元気がないワケでもない。環境変化に対応した、正常進化形なのだ。環境が変化すると、先にその状況に適応してしまった人の方が、優位になる。当然、後天的にその環境に触れた世代より、生まれたときからその環境の中という世代の方が、圧倒的に適応力が高い。ここでは、経験が足を引っ張ってしまう。大人と子供では、立場が逆転し、子供のほうが正解の対応をする可能性が高い。「最近の若い者は・・」と顔をしかめる前に、「やっぱり年寄は・・」と思う余裕を持てるか。未来にオプティマイズした答えを出すには、これがカギになる。


(11/09/23)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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