性善説? 性悪説?





社会党や共産党など、かつての「革新政党」の「バカの一つ覚え」として、「大企業が悪い」というのがある。共産党などは、今でもそれに類する主張をしている。確かに、不祥事を起す大企業もあるが、だからといって「大企業」という存在自体が悪いのではない。その企業の中に邪な人間が多くいて、邪なことをやろうとするから、不祥事が発生する。多くの大企業は、コンプライアンスを守って、清廉潔白に事業を行っている。

つまり「寄らば大樹の陰」で、甘い汁を吸おうとしている人が多い企業が、不祥事を起すだけである。その「甘え・無責任」な発想が、不祥事の温床となっている。悪いのは、明らかに人間なのだ。組織はあくまでも擬似人格であり、組織としての意思を持つワケではない。だからマトモな人が多かったり、きちんとしたビジョンを持ったオーナーがしっかりとしている企業ならば、自浄作用があり、そういうことは起きない。

共産党や社民党は、自分が努力せず、金がありそうな相手にガンつけして、なるべく多くの利権を引き出すことしか考えていない。自分は全部正しく、相手が全部悪いという、「オレのものはオレのもの、他人のものもオレのもの」的発想である。いわば「甘え・無責任」の権化だ。そういう連中が、「甘え・無責任」な人間が多いがゆえに不祥事を引き起こした大企業を目のカタキにするのは、まさに同じ穴のムジナの内ゲバといえる。

組織自体には罪がないというのは、官僚制でも同じである。現在の日本の官僚達は、自分たちの天下り利権の確保・拡大と、それを成り立たせるバラマキ行政の継続しか考えていない、ロクでもない連中ばかりだが、だからといって官僚制が悪いからこうなったというワケではない。悪いのは人だ。ロクでもない人間ほど官僚になりたがるという、官僚制度の運用に問題があるのだ。

志のあるマトモな人間が官僚になり、その上に聖人君子がガバナンスを発揮すれば、官僚制は極めて効率的に機能する。官僚制というシステム自体は、色がない。その外側にある目的のために、全体最適を図れるのが官僚制の本来の姿だ。それが内部に向かって自己目的化してしまったのがいけない。邪な人間ばかりが官僚になり、自分たちの利権しか考えない政策を行い、法律を作るから問題なのだ。

中国の王朝の歴史を見ていても、成立初期には、皆士気が高く、人徳の高い皇帝の下、志のある人々が官僚に登用され、歴史に残る善政が行われるものの、末期になると、皇帝も酒池肉林に走るとともに、官僚も袖の下で私服を肥やすことに奔走し、腐敗の限りをつくすこととなる。このどちらも、同じ王朝の同じ制度の元で起こっていることなのだ。これをみても、制度そのものより、運用がいかに重要かわかるというものだ。

人類の歴史を見ると、制度自体が曖昧なコトのほうが多い。すると、全てが運用次第という「人治」の世界に入ってしまう。これは昔からの持論だが、憲法第9条の問題など典型だ。現状の条文はあまりに曖昧で、理性的に読む限り、国際紛争を解決する以外の武力を保持しても、決して憲法違反ではない。本当に、非武装中立を貫きたいなら、その旨を憲法の条文に掲げるべく、憲法を改正しなくてはならない。「護憲」は、決して非武装中立にはならない。

「護憲」の本質は、その主たる支持者が「革新政党」や「労働組合」という、ゴネ得により、現状の利権・既得権の維持拡大ばかりを考える連中であることからもわかるように、平和主義なのではない。大きな枠組みを変えない中で、自分たちの存在をアピールしたいという、既製の利権体制の擁護の主張でしかない。マハトマ・ガンジーのような徹底した平和主義者なら、運用でのゴマかしが効かないよう、憲法の改正を主張するだろう。

第二次世界大戦前の治安維持法や特別高等警察も、思想弾圧、言論弾圧の象徴として、悪法のきわみのように語られるが、これも運用の問題である。偏差値だけで人徳のない、庶民からなりあがった心の汚い官僚が運用するから、恣意的な運用になりおかしくなる。高貴な聖人が運用するなら、極端なはなし、道に外れた人間は全て死刑にするとしても、天下の道理に反することはない。

問題は、古今東西を問わず、聖人君主よりは、邪な凡人の方がはるかに多いし、「自立・自己責任」の人間よりも、「甘え・無責任」の人間の方がはるかに多いところにある。数の論理に立つ限り、道理の筋は通らない。民主的な社会になればなるほど、倫理的なモラルは低くなる。グローバルなレベルで、人類はこの二兎を追えないところまで来ている。数を取るのか、モラルを取るのか。最低限、これだけは自覚的に選択する必要がある。


(11/09/30)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる