サラリーマン首相





オーナー社長においては、ブランドや事業に対し自分の人格同様の思い入れがあるため、新たなことをはじめる際には、それが既存のブランド価値を毀損しないだけでなく、その事業に取り組むコトによるプラスのメリットも求める。おいおい、コンピタンスのない事業への進出は慎重になる。しかし、決断は速いので、やるとなったら大型のM&Aを決めることもたやすい。また、一旦はじめた事業も、期待したほどの可能性がなければ、撤退することも容易である。

これに対し、日本の企業に多く見られるサラリーマン社長は、責任が降りかかることに対し、過剰に敏感であり、決断が遅く、また大胆な意思決定を避ける傾向が強い。その反面、すでに他社の実績があるものについては、二番煎じ、三番煎じでも、横並びで進出することを、安易に決めがちである。しかし、先行企業があるマーケットで、後発企業が価格以外で成功するコトは難しい。しかし、一旦はじめたことを、ヤメる決断は難しいので、ずるずると泥沼にハマリがちである。

要は責任のとり方の問題である。サラリーマン社長は、ヤメればいい。元が「持たざる人」なので、元に戻って捨ててしまえば逃げられるのだ。ということは、良いトコ取りの「クリームスキミング」ができることになる。すなわち、成長にかける、それを自分の功績として取り込むことは容易だ。しかし、ヤメる決断、退く決断はとても難しい。それなら、ヤバくなる前に、自分が逃げてしまった方がいいということになる。

残存者利得を狙って、体力勝負の持久戦をかけることはある。しかし、これは技術力においても、資金力においても、あきらかに優劣の差がある製造業においてのみ成り立つことである。優劣の差が少ない企業や、体力の劣る企業同士が持久戦に入っても、共倒れになるだけだ。ましてや、流通業では過当競争は命取りだ。しかし、日本のマーケットにおいては、こういう状況が多い。これも、参入はできても、撤退を決定できない、サラリーマン社長の無責任さの現れといえる。

しかし、これは本人の資質の問題ということではない。そういう人が社長に選ばれてしまう環境やプロセスが問題なのだ。サラリーマン社長が選ばれる企業においては、ある意味極めて「民主的」な形で社長選びが行われる。社員が圧倒的なステークホールダーであり、社員の総意と強いて、多数の代表、多数の代弁者として社長が選ばれるわけである。そこには、顧客や株主の視点は入っていない。

そもそも「会社は社員のものだ」という、妙に共産主義的な発想は、なぜか日本企業に共通するものである。江戸時代の豪商や、その流れを汲む明治初期の財閥はさておき、戦前の新興財閥系企業以来、日本企業においては、オーナーや創業者がおらず、あくまで組織決定により、企業グループの一員として設立されたり、スピンオフしたりした企業が、圧倒的に多数を占めている。

こういう企業は、官庁と同じで、組織自体の維持拡大が、その組織の存在目的となりがちであり、実際そうなっている企業がとても多い。可能性に賭けるか、既得権を守るか。この選択は、人々の数の論理によって決められる場合には、必ず既得権を守る方になびく。将来の人があとから振り返って、そちらが良かったと考える選択が、多数に選ばれることは稀である。これは、企業だけでなく、政治でも見られる現象である。

日本の政治においては、このところ、短命な首相が続いている。5代続いて、1年程度で首がすげ変わっている。これは、基本的に、自民党でも民主党でも、首相となるべき党首を選ぶときに、自分達の既得権を守れるかどうかという安易な選択で選んでいるからだ。政治家の既得権といえば、利権構造もあるが、なによりもそれは「選挙によって得られた、議員の地位」である。つまり、選挙に勝てるかどうかという安易な基準で、トップを選んでいる。

サラリーマン社長では、事業の成否や戦略性といったリーダーシップを求めるのではなく、現状の構造を守ってくれそうな人が社長に選ばれる。それが、サラリーマン社員の総意でもあるからだ。同様に、政策や国の将来ではなく、自分の議員としての地位しか考えないサラリーマン政治家が、それを一番有利に実現してくれるサラリーマン首相を選んでいる。これは、企業で無責任なサラリーマン社長が選ばれるプロセスと、瓜二つの相似形だ。

首相になった人々の器は確かに問題だが、それは結果論である。因果関係で言えば、そういう人を選んでしまった議員たちの「製造物責任」は大きい。もっというと、この構図は、無責任な日本の組織が、「民主的」な意思決定をしようとするとき、必ず現れてくる現象である。無能な首相をあざ笑い、それを選んだプロセスを茶番と批判することはたやすい。しかし、所詮は同じ穴のムジナ、目クソ鼻クソの類である。それより、日本人一人一人が、これを他山の石として、我が事として反省する方が、余程意味深いだろう。


(11/10/07)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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