組織の最小公倍数と最大公約数





組織の中の多様性を重視する、ダイバーシティという考えかたが広がっている。国際政治でも、企業の経営でも、力の論理だけで押し切ることが難しくなった21世紀にふさわしい発想である。しかし、実はこの「多様性」という概念、日本の組織が最も苦手とするものだ。多様性を掛け合わせ、最小公倍数の可能性を導き出すのがダイバーシティだが、日本の組織は、多様性の最大公約数に矮小化して対応するのがせいぜいだからだ。

多様なキャリアの人材が、同じ組織の中にいる場合が多くなっている。途中入社、外国人、いろいろな経歴の人間がいるのが普通で、かつてのように、全て新卒採用・年功序列というのは、企業では少なくなった。しかし、日本の企業では、最小公倍数としてその多様性を活かすどころか、最大公約数である「金」だけでしか評価できない組織になってしまっているところが多い。多様性を活かせるリーダーが、日本では生まれないのだ。

民主主義が、マトモな意味で機能するのは、多様性が担保されている集団においてのみだ。このような場合、多数決は、個々に見て行くとまとまらない意見の中で、どこに落としどころにあるかを見極めるプロセスとなっている。それも、極めて透明性が高い。しかし、日本のようなマジョリティーの均質性が明確な集団で多数決を行うと、既得権の擁護のための出来レースとなってしまう。

そういう風土を持つ日本の組織に、多様性を持ち込むと、たちまち自家中毒というか、機能不全を起してしまう。これは別に今に始まったことではない。80年代、プラザ合意以降の円高不況の時期に、「新規事業ブーム」というのが起こった。当時の日本企業の経営においては、利益という考えがなく、まだ売り上げ至上主義、シェア至上主義の時代だった。

円高不況により経営リソースに余剰が発生したが、そのリソースをリストラするのではなく、ノン・コアコンピタンスな事業に投入することで、少しでも売り上げを伸ばそうというのが、当時の「新規事業」の発想である。さすがにその時代でも、裸一貫で敵陣に乗り込むような無謀な発想をする企業は少なく、同じ領域を狙う企業同士が、お互いの強みを持ち寄って進出しようという、「合弁ブーム」が引き起こされた。

しかし、その結果は死屍類類である。まさに、合弁で新会社を作った企業同士は、多様性のシナジーを期待していたワケだが、そうは問屋が卸さない。もともと多様性を認めない体質の企業同士で、新しい企業を作っても、そこが多様性を認める企業風土になるワケがないのだ。大体、出資会社、関連会社というのは、親会社の企業体質の悪いところだけ引き継ぐものなのだ。

おまけに、そういう企業同士の合弁だと、誰も経営責任を取らなくていいように、2社なら50;50の対等出資、3社なら仲良く1/3づつと言うような出資比率になるとともに、役員も各社からなるべく対等に出すようになりがちだ。さすがに社長は一人だが、2社なら会長と社長を分け合ったり、3社なら、社長以外に代表権を持つ副社長を2名置いたりすることで、実質的に特定出資社に責任が来ないようにしたものである。

まさに、最小公倍数にしかならない、というより、最小公倍数にしかさせないのである。この体質は今も変わっていない。そういう意味では、ダイバーシティというお題目を唱える以前の問題がある。もっとも、日本の組織といっても、すべてが多様性を認めない体質ではないし、日本にもリーダーシップを発揮できる人材はいる。「単一民族」が虚構であるように、朱に交わって赤くならない者もいる。

時代がダイバーシティを求めているのなら、旧来の日本的経営にとどまる企業に代わり、そういう企業が頭角を現すはずである。同様に、旧来の既得権擁護の調整型リーダーに代わり、多様性を活かせるリーダーが実績を残すはずである。日本の企業がダイバーシティを活かすのではなく、ダイバーシティの時代が日本の企業を選別するのだ。そういう視点で見るなら、これはリスクではなく、大いなるチャンスといえるだろう。


(11/10/14)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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