輿論形成





すでにこのコーナーでも、手を変え品を変え何度も論じてきたテーマだが、「マスコミと輿論形成」という問題に関しては、それを是とする立場でも、非とする立場でも、その影響を必要以上に買いかぶって捉える傾向が未だに強い。こと現代の日本社会においては、上から目線の論調には、その内容を問わず、大衆は反応しなくなっているという事実を理解しようとしないのだ。

具体的に言えば、論点が、全国紙のような既存のジャーナリズムの側に立つのであっても、それを批判するフリージャーナリストの側に立つのであっても、「メディアは偉くて、人々を啓蒙するもの」という「上から目線」から論じているところは共通している。まあ、言論人としての自負があるのだろうから、「そうあってほしい」という願望があるというのもわからないではない。

また、テレビが普及する以前の1950年代とかのように、人々が情報に飢えている時代であれば、貧しい時代のマーケットでは「プロダクト・アウト」が成り立ったように、上から目線が成り立っていたコトも確かだ。そういうメディアにとって古き良き時代を知る者が、「そうだった時代がなつかしい」というノスタルジアに浸るというのも、これまた善し悪しはさておき、年寄りではよく見られることだ。

基本的に、これは思想信条の問題なので、本人の個人的な「情」の部分で、「メディアは偉くて、人々を啓蒙するもの」と勝手に思うのは自由だ。しかし、状況を客観的に見つめ、事実を事実として認識するのがジャーナリストの基本である。社会の実情を無視し、自分の主観でしかモノを見られなくなった時点で、ジャーナリストとしては失格だ。そういう意味では、日本のジャーナリストのほとんどは失格である。

今の中国やインドといった新興国の大衆がどうなのかは知らないが、1980年以降の日本の大衆は、上から目線の論調に誘導されるほどお人よしではないし、メディアの言うことを鵜呑みにするほどバカではない。それどころかマスメディアに対しては、自分が楽しく、面白いと気に入ったもの以外は、一切受け入れないという、極めて明確なリテラシーを持っている。これに気付かないジャーナリストは、すでに社会から乖離している。

マスで流しても、自分がおもしろくないモノが出てきたときは、チャンネルを替えたり、スイッチを切ったりするだけだ。最近なら、マルチスクリーンの別のメディアの方に熱中し、画面からは意識を逸らしてしまうことも多いだろう。そもそも見てもらえないし、聞いてもらえないのでは、いくらコンテンツを流しても、ドブに捨てているのと同じである。まあ、60代以上の老人なら、見てくれるかもしれないが。

基本的に労働人口のほとんどの部分がこういうリテラシーをもっているからこそ、輿論を誘導しようとして、一定のイデオロジカルな内容を、マスメディアを通じて投下したとしても、それにより輿論が動かされることはない。いつも言っているが、マスで投下すれば、大衆がそれを鵜呑みにするというのなら、世の中から「コケて途中打ち切り」という番組などあるワケがない。全部、大ウケ、大当たりということになる。

また、日本の大衆に対して「上から目線」が説得力を持ちうるのであれば、政治がこんな体たらくになることはないはずだ。政治家になるには、選挙で当選しなくてはならない。票を取るには、お笑い芸人よろしく、下から目線で人々の気を惹きウケを狙わなくてはならないのが実情だ。そうである以上、バラマキとは違った意味で、ポピュリズムにならざるを得ない。これを「下から目線のポピュリズム」と名付けよう。

日本の政治を覆いつくしている「下から目線のポピュリズム」は、今まで言われてきたような「上から目線のポピュリズム」とは違う。その違いの最大のポイントは、人々が明確な意思を持ち、民主的なプロセスを経た上での選択であることだ。人々は、選挙にも、より面白いモノ、より楽しいモノを求める。そのネタが、「小泉劇場」であり、「政権交代」だったし、その結果として票が集まったということなのだ。

ある意味、マジョリティーの人々が、明確な意思の元に選択した結果を、マスメディアの輿論形勢の悪影響といって切り捨ててしまうこと自体、極めて無責任な態度である。それを、「メディアの中のヒト」が語るというのは、思い上がりも甚だしい。それならまた、精一杯大衆のウケを取ろうと努力し、マジョリティーのお口に合うコンテンツを提供しているメディアのほうが、余程謙虚で評価すべきではないか。

個人的には、現在の社会状況に対して、ゆゆしく思っている点も多々ある。しかし、それと違っているといって、社会全体の意志に基づく選択の結果を受け入れないというのは、あまりに傲慢である。社会の一員でいたいのなら、その選択を尊重する必要があるのが民主主義社会である。それが受け入れられないのなら、せめて社会の外側で吼えていただきたい。まあ、そういう論調は「とんでも本」としか思われないのが関の山だが。


(11/11/04)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる