日本人と組織





「日本的な組織」というのは、昔から「日本論」を語る上での定番のテーマである。グローバルな視点から見ればそのくらい特徴的だし、時代や環境が変わっても、その本質はびくともしない。簡単に言えば、「甘え・無責任」を実現する手段としての組織、ということになる。一人一人バラバラだと、顔が見えるのが、組織の中に入ると、とたんに肩書だけになり顔が見えなくなる。いわば、個人の責任に対して、迷彩をかけるためのツールとなっている。

問題は、これが意識的に形成されたものではないところにある。確信犯でないだけでなく、誰一人として、明確に意思を持って選択したわけではないのに、結果としてそうなってしまったというのが現実なのだ。誰が決めたわけでもないし、誰かが指示したワケでもない。あたかも、何の作為もないのに、自然にそうなってしまったかのように捉えられている。これが、無責任さを担保している。

日本的な「八百万の神」の発想は、アニミズム的に、全てのものに神が宿り、全てのものが神の思し召しである、と捉えるところに特徴がある。これはスゴい発想だ。よく日本語には主語がないといわれるが、省略された主語は「ない」のではない。それは「八百万の神」が主語なのだ。存在するけど目には見えない、全てに共通する超越的な存在があり、それが行うことに関しては、主語をつける必要がないのだ。

昨今の官僚組織は、かなり意図的に責任の曖昧化を目指している。組織制度の変更をたどっていけば、いつ誰がやったことかを辿ることができる。もっとも、それは個人名ではなく、役職・肩書でしかないのだが。しかし、それは近代社会になって、西欧的な法律体系を導入した結果、もたらされたものである。日本的な組織の歴史の方が、それより余程長い。それは、組織と呼べるものがこの国に現れた、中世にさかのぼる千年余りの歴史を持っている。

古代的な支配の形態が崩れ、自律的な持続性をもつ自治的な共同体が誕生した時から、この宿命を持って生まれたものとなっている。それは、相矛盾する要素のある、共同体内部のメンバー間の秩序と、共同体外部にある共同体間の秩序とを、両立させるためのものである。内部的には利害が対立していても、外部からの攻撃を受けると、そんな利害対立を微塵も感じさせないかのごとくに、一致団結して防御する。企業や官庁のタテワリ組織の中で今も見られるこの行動様式は、まさに中世的な共同体のそれとうり二つである。

それほど歴史もあり、必然性もある組織のあり方なのだから、これを変えるのは難しい。それどころか、変えようとしても、けっきょくは元の木阿弥になってしまうのがオチである。たとえば外資系の企業など、当初は現地流の組織構造を持ち込んでくるが、それでウマくいったという例は極めて少ない。逆に、日本で成功した外資系企業など、いつの間にか組織のあり方が換骨奪胎され、組織呼称のみグローバルだが、その運用は極めて日本的組織になっているということも多い。

日本的な組織と付き合うなら、これを理解し上で、どうしようもないモノと割り切って行くべきである。漫然と企業に就職することなど、愚の骨頂である。組織とどう付き合うかを、まず明確にしておく必要がある。最初から組織に頼るコトを前提に、組織に入るヒトもいる。肩書きで仕事をしよう、組織を傘に仕事をしようというタイプだ。官僚が典型だが、こういう人には、日本的な組織はすばらしいチャンスを与えてくれるだろう。まあ、最近の就活に血道をあげる若者もこのタイプだ。そういう意味では、これはこれで幸せなマッチングなのだろう。

逆に、自分にやりたいことや強みのある人間は、組織に頼らない方がいい。組織に期待しても始まらない。それどころか、組織に弱みを握られては、本当に能力を活かせなくなる。おまけに、既存の利権構造に取り込まれる要因ともなる。ローンのために働く、生活のためにリスクを取れない、ようになったら万事休す。実際、それで可能性をあきらめてしまう人も多い。それではあまりにむなしいではないか。

いきのいい人材は組織に入らず、組織に頼り切る人材だけが組織に集まるようになれば、おのずと組織の活力は失われ、傷を舐めあって同類相憐れむだけの存在となるだろう。貧しい中で、限られた経営リソースをかき集め、効率的に使うために組織を使わなくてはならない時代は終わった。それはそれであってもいいし、本来の共同体のあり方のひとつかもしれない。豊かな社会になるというのは、実はこういうことなのだ。


(11/11/11)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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