刷り込み





現代日本の生活者にコーホート分析を行うと、何よりも世代効果が強く現れるコトに関しては、すでにこのコーナーでも何度か取り上げたことがある。全体のクラスタリングとは逆に、特定の個人を前提に考えると、意識や行動については、世代効果の影響が最も 大きく、次いで時代効果、その反面年代効果の影響は薄いのが特徴となっている。これは、高度成長以前の日本人とは大きく異なる点である。

実生活の体験としても、これは実感として強く感じていることと思う。たとえば、ぼくらが中学に入った頃のハイティーンといえば、ちょうど団塊世代を中心とした層であった。その時は、高校生とか大学生とかなればあんな風になるのかな、と思っていたのだが、実際に自分がその歳になってみると、中学のときとあまり変わってはおらず、かつて見た高校生の先輩たちとは、似て非なる集団になっていた。

同じように、社会人になればなったで、30代、40代の先輩方を目にすることになるが、自分がその年齢に達しても、先輩方との意識や行動の違いは、新入社員の時に感じたもののままであり、自分自身は変化していないことに改めて気付く。ライフステージが多様化し、生涯独身世帯やDINKSなども常識化し、かつてのように「標準世帯」が過半数を占めるような時代になったことも、それに拍車をかけている。

これらは、ひとえに自我を形成する時期の、社会環境からの「刷り込み」による影響である。いつも指摘しているように、メディア接触や情報消費といった、メディア・コンテンツがらみの意識や行動において、世代効果が特に明瞭に現れるのは、そのベースとなっているインフラやシステムが、外的要因により、ある日一斉に変わるという特性を持っており、刷り込みが、世代共通化しやすいことによる。

しかし、刷り込みのメカニズム自体は、なにもメディアやコンテンツに限られたものではない。一般的な社会環境、生活環境でも、同様の刷り込みが起こっていることは、容易に想像される。ただ、このような刷り込みは、地域差、階層差が大きいため、見えにくくなっている。また、同じように家庭環境からの刷り込みも大きく、これは個人差という形で顕著に現れてくる。とはいえ、大きい意味で共通した世代的刷り込みというのは存在する。

育った時代からの刷り込みが違えば、モノの見えかた・感じかたが変わってくるということは、実生活でもしばしば体験する。たとえば、「サッカー」のイメージなどはわかりやすい。今の大学生以下の若者にとっては、物心ついたときにはJリーグが起ち上がっており、「ドーハの悲劇」も歴史上のできごとであった。つまり、最初から「サッカーは人気プロスポーツ」であり、日本はワールドカップに出場するクラスの「東アジアの強豪」だ。

われわれのような「三菱ダイヤモンドサッカー」を知っている世代にとってのサッカー像と、今のティーンエージャーが思っているサッカー像とは、全く違うのだ。これは良いとか悪いとかではなく、「見て育った環境が違う」というだけのコトである。新幹線ができる前に育ったヒトにとっては、東京-大阪間3時間は「速い」というイメージだが、新幹線が当たり前の世代にとっては、3時間とか2時間半というのは当たり前であり、リニアの1時間になって初めて「速い」と思えるのだ。

世の中の読み違えのほとんどは、広い意味の世代効果、すなわち「世代による刷り込みの違い」に気付かないことによって引き起こされている。少なくとも、日本の生活者においては、育った時代が違えば、価値意識も行動様式も全く違うのだ。この違いを軽視して、自分の立ち位置からの発想を、他の世代に押し付けようとしても意味がない。刷り込みを見切って、どう見え方が違うかを知ることがなにより重要だ。これが、こと日本の生活者を理解するためには、不可欠な第一歩といえる。


(11/11/18)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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