制度とヒト





どんなすばらしい制度も、運用次第で腐る。「世に盗人の種は尽きまじ」ではないが、政治資金でも範社会団体でもいいが、どんなに厳しく取り締まったところで、そのニーズを持っている人が存在する限り、絶滅することはできない。厳しくすればするほど、地下に潜るだけである。ましてや、日本の官僚制度のように、最初から邪な意図をもって作られた日には、目も当てられない。

どんな制度でも、どんなシステムでも、完璧を誇っていたとしても、それが機械ではなく人間を相手にしている以上、かならず抜け穴はある。穴があれば、そこから水が漏れ出し、どんどん穴を広げてゆくように、緻密な制度であればあるほど、わずかなほころびに応力が集中しやすい。一旦抜け穴に気がつけば、そういうコトに聡いヒトたちは、そこに群がっておいしい思いを満喫するようになる。

企業であっても、官庁であっても、はたまた社会全体であっても、それが人間の集団である以上、「そういうコトに聡いヒトたち」は、必ず一定比率で存在する。そうである以上、閉じた系においては、エントロピーは非可逆的に増大するように、制度の骨抜きは非可逆的に進行する。つまり、制度には生物のように寿命があるのだ。そして、その寿命が早いのか、けっこう長続きするのは、まさに「個体差」の領域である。

そもそも、すべてのケースを想定して、制度を作ることは不可能である。そうである以上、安定性を制度により担保しようというのは、極めてリスキーなやり方である。特に日本のように、タテマエとホンネを使いわけ、最初から「運用」でどうにでもなるとタカをくくっているヒトが多い社会では、事実上制度など意味がないとさえ言える。憲法第9条をめぐる50年以上の及ぶ「議論」を見てもわかるように、日本においては、どんな制度もルールも、玉虫色なのだ。

このところ有名日本企業において、コンプライアンスやコーポレート・ガバナンスが問われる事件が立て続けに起こっている。こういう事態になると、日本ではすぐ、ルールや管理を厳しくする、という話になりがちである。実際、日本企業では、「ためにする管理」でがんじがらめになっているところが多い。しかし、それで解決する問題ではないことは、そういうルール作りが進んでいるはずの欧米でも、同種の問題が何年かおきに起こっていることをみればわかるだろう。

情報管理という面でも、同じようなことが見て取れる。暗号化やユーザレベルの管理など、情報システムのセキュリティーは、どんどん厳しくなっている。しかし、情報が最終的に人間によって使われ、マンマシンインタフェースがある以上、システム内部でのセキュリティーをいくら強化しても、あるレベル以上の努力は意味がない。そうなったら、セキュリティー管理ができない、人間系を攻めたほうが楽だからだ。実際のスパイ活動でも、あるレベル以上の情報は、担当の人間を懐柔したほうが余程容易に入手できる。

なんとかいったところで、結局は全てヒトの問題なのだ。どんなに公明正大なルールと制度を備えた組織であっても、ひとたび悪徳の心を持った人間がトップに立てば、一瞬にして巨悪の組織となってしまう。いや、公明正大な仕組みであるからこそ、トップの器次第では、簡単に悪に染まりきってしまうのだ。組織には、色はない。組織についている色は、そこにいるヒトたちの色でしかない。

ヒトラーのドイツ第三帝国だって、ヒトラー率いるナチス党が、国民を脅して権力の座についたのではない。世界でも最も民主的といわれた、ワイマール憲法下のドイツ国民が、ナチスの政策を熱狂的に支持したからこそ、民主的なプロセスで政権の座につくことができたのだ。ドイツ人は責任逃れのため、ヒトラー一人に責任を押し付けたがるが、それではワイマール体制自体を有名無実化してしまうことになる。

国民が圧倒的に支持すれば、ワイマール体制がナチスを生むのだ。まさに、歴史的事実である。制度がどうあろうと、そこにいるヒトたちが望むのであれば、それは運用次第でどうにでもなる。逆もまた真なり。その組織のメンバー全員、とはいわないが、少なくとも過半数の人間が、きっちりと自分を律せる人間であるなら、制度がどうあろうと、その組織は極めて尊敬すべき、マトモなものとなるはずである。

最低限、リーダーシップをとる人間が人格者なら、それなりにキチンとした組織になる。人格者かどうかは、教育ではない。そういう育ちかたをしたかどうかにかかっている。育ちのいい人格者が独裁者になるのであれば、全体主義だって悪くない。中国の歴史における、理想の皇帝のあり方がこれだ。その反面、器の低い人が、リーダーシップを取るのが最悪だ。またこういう小人物に限って、「偉くなりたがる」権力志向が強いときている。

育ちとはすなわち、人格形成期での個人的な環境からの刷り込みである。成金と資産家を隔てるものも、この育ちの違いだ。育ちは一代にしてならず。何代も掛けて、ゆっくりゆっくりと人格者が育つ環境を整えてゆかねばならない。そういう意味では、日本社会は、「40年体制」により、江戸時代に培った人間性の蓄積を破壊してしまった。そして、今は新たな人間性のあり方が蓄積されている時代である。この混乱も、それが確立するまでだ。そう思えば、希望も湧くというものではないか。


(11/11/25)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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