保護主義の嘘





世の中には、自分が持っているもの、自分が得た以上のものを、欲しがったり、権利があると要求したがるヒトがいる。いるというよりも、そういう輩のほうが多いといったほうが、今の日本の実情を表しているかもしれない。保険然り、年金然り。右肩上がりの高度成長が終わり、そういう追い風を前提とした既得権益が、明らかに分に対し不相応なモノになったとしても、権利の主張だけは決してヤメない。

そもそもエネルギー保存則ではないが、価値保存則というか、この社会には、社会全体の生みだした価値以上のものは存在しない。すべての価値は、誰かが生み出したものである。こと財についていうならば、打出の小槌のような魔法は存在しない。ありあまる「余剰」に見えるものも、けっきょくは他の人が生み出した価値である。かならず「持ち主」がいるのであって、無主の財などない。

今あるこの世の中にある価値以上のものが欲しければ、その価値を自分で生み出すしかない。価値を生み出せないなら、我慢するしかない。自分が持っている財以外の財は、全て誰か他人のものである。そして他人のものを取るのは、泥棒である。すなわち、自分が生み出した以上の価値を手にしようという行為は、泥棒を働くことに他ならない。その割には、罪悪感なく権利を主張しがちである。

こと、金で計れるものについては、世の中に青天井はないのだ。時と場合によっては、見えにくいコトもあるだろうが、かならずどこかに上限はある。これは、個人の所得を考えてみればよくわかる。借金はいくらでもできるかもしれないが、返済できる範囲は決まっている。それを超えたら、クレジット地獄、ローン地獄である。自分で稼げる範囲なら、先取りもないわけではない。それを越えたら破産しかない。

家計ではきちんと守られていることが、なぜか国や社会の問題となると、極めていいかげんになる。どこかに、無尽蔵な埋蔵金が埋まっているかのごとくである。それは、国や社会の問題については、みんな実態を知らないし、わからないからだ。さらに知ろうとしても、調べようとしても、情報がない。その原因は、利権を守るために、そういう情報をディスクローズしない、官僚たちの責任に行き着く。

「無産者」は、失うものがない強みから、自分の立場もわきまえず、ダメ元のおねだり一方である。共産主義、社会主義が破綻したのも、そういうヒトたちに権力を与えてしまったからだ。みんなで喰いモノにすれば、どんな国家も破綻する。いわゆる「40年体制」も、極めて共産主義的な構造といわれるが、確かに、無産者と無産者から選ばれた官僚達が、国を食い物にする共犯関係が基本になっている。

昨今話題になっている「TPP」への対応は、これを如実に表している。特に、農業における事例がわかりやすい。事業としての農業をやっており、本当の意味で農業にやる気のあるヒトは、実はTPP賛成である。TPPは、農業を壊滅させるのではなく、日本の農業のビジネスチャンスも、飛躍的に増大させるからだ。逆に、形式的には農家だが、農業に対しやる気のないヒトが、TPPに対し反対を唱えている。

ここに、問題の本質が見えてくる。社民党、共産党、労働組合といった人々は、一間「弱者」の味方をしているようだが、実際には既得権の擁護と、新たなバラまきを求めるだけである。それも単に「くれくれ」というだけで、原資のアテは考えていない。だが40年体制は、こういう面では同じ穴のムジナなので、大きい意味の利権構造の温存という意味では、持ちつ持たれつで、それなりにバラマキにありつけてきた。

これと同じで、TPPに反対している「農家」は、農業のことを考えているふりをして、実は自分のことしか考えていない。それもそのはず、農家とは名ばかりで、農業をしているのではなく、自家消費分しか作っていない。補助金が欲しいために、農家を語っているにすぎない。実際の生活は、給与所得に頼っているくせに、それが利権でおいしいから、農家であり続ける。こういう構造を温存したのも、40年体制の罪である

その発想は、全く身勝手な限りである。高度成長期においては、永遠に右肩上がりが続くという幻想が共有されていたので、こんなわがままも許されてしまった。だが、もはや時代が違う。日本国内はもちろん、世界経済全体が、産業革命以来近代を象徴していた「右肩あがり」続けられない状況になっているのだ。こういう連中に一人前の権利を与えること自体が、安定成長時代をわきまえない、最大の内なるリスクであるといえよう。


(11/12/09)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる