会社組織の終焉





会社という組織は、その嚆矢が大航海時代の「東インド会社」に求められることからもわかるように、近代社会、資本主義経済にオプティマイズした組織である。人類の歴史とともに存在していた、普遍性のあるタイプの組織ではない。それだけに、主として経済面を中心にそのメリットも大きいが、決して万能というワケではない。あくまでも、そのメリットが活きるTPOをわきまえてこそ、その価値が高まる組織といえる。

その特徴のひとつである、株式による資金調達のメリットについては、前に触れた。繰り返しになるが、そのメリットが活きるのは、マネーが不足し、資金調達がボトルネックとなっていた時代や地域に限られる。世界的に資金が余っている今となっては、条件は大きく変わった。細かい資金を集めなくとも、多様な資金調達が可能になっている。そのマネーが集中している先進国ではなおさらである。

もう一つは、スケールメリットによる効率性だ。マス・マーケティングに基づく大量生産・大量販売は、その販路が確実ならば、極めて効率が高い。しかしその実現のためには、巨大な生産力と販売力を支えるリソースとマンパワーが前提となるため、組織も大きいほうがメリットがある。しかし、今や新興市場と呼ばれた中国でも、消費市場の成熟化が顕著になり、ただモノがあれば売れるという時代ではなくなった。単に大きければいいという時代は終わり、会社組織を必要とした根幹が崩れている。

こうなってくると、デメリットの方が目立ってくる。大きい組織は、その組織を維持するために、一定のスケールが必要である。巨大であることが、自己目的化するのだ。それを支える成長が得られなくなると、たちまち綻びがあらわになる。規模が大きくなればなるほど、小回りが利かなくなり、社会の変化についてゆけなくなる。2:6:2の法則が働いてしまい、マジョリティーが組織にぶら下がるだけの人材となってしまう。

もちろん、今高度成長下にある新興国なら、会社組織のメリットは今も活きる。だが今までの近代社会を支えてきたような先進国においては、デメリットのほうが先に立ってしまう。そのような国々では、ポスト近代社会的な生産モデルが求められている。そして、それは、個人の顔が見える超高付加価値型のビジネスモデルであり、これは会社組織と相容れない特質を持っている。組織でも、個人の名前を前に出したビジネスはできると、反論する向きもあろう。しかし、そういう思いこみ自体が、20世紀的なのだ。そう、簡単な話ではない。

コンテンツビジネスが、その典型的な実例だろう。音楽でも映画でも、ミリオンセラーの超ビッグヒットというものがある。ビジネスという面から見れば、たしかにビッグヒットはデカいのだが、アーティストの側から見ると、違う構図が見えてくる。規模をデカくしても、スタッフの食い扶持が増えるだけであり、アーチストの得るものは変わらないのだ。それどころか、粗製濫造になる分、作品の質は下がる。それはとりもなおさず、受け手に与える感動が減ることを意味する。

100万人から金を取れる音楽と、100人の心を真に揺り動かす音楽と、どちらが感動的か。ファンからすると、メジャーになる前の、インディーズやストリート時代の作品の方が、熱い支持を受ける一方、90年代にあれほど連発したミリオンヒットが、ほとんど心の中からは忘れられ、単にカラオケで時代を懐かしむだけの存在になってしまったことを考えれば、答えは明白だ。サーキュレーションが増せば増すほど、一人当たりの「エキス分」は薄まってしまうのだ。

これからの時代に求められること、それは、大量生産ではなく、多品種少量生産でもない。受け手の心に深く突き刺さる、製品やサービスが求められている。それも、比類なき深さで突き刺さる必要がある。この切先になるものこそ、「ヒトの顔」なのである。顔が見える製品やサービスでなくては、鋭く突き刺さらない。顔が見える製品やサービスを実現するビジネスモデルに対しては、企業組織は必ずしも向かないだけでなく、その匿名性ゆえデメリットとなってしまう。

たとえば、食品で考えてみよう。食べ物を提供するビジネスには、いろいろな形態がある。インスタント食品メーカー、チェーン展開のレストラン、オーナーシェフのビストロなどそれぞれ違ったビジネスモデルを展開している。求められる役割が違うからこそ、異なるパターンが併存している。大量生産のインスタント食品メーカーには、やはり会社組織が向いている。チェーン展開の場合、会社組織でも可能だが、もう少しオーナーの顔も見えるフランチャイズ形式がフィットする。

シェフの個性を売り物にする料理店は、別に法人格があってもいいが、基本的に個人商店でなくてはウマくいかない。多店舗経営をするようになってから、料理の質のキープが難しくなり、結果的に顧客の信頼を失うケースもよく見受けられる。自分たちが果たすべき役割、自分たちが目指しうる方向性、それらをきちんとわきまえていれば、自分たちにふさわしいモデルがどれかすぐわかる。そして、会社組織が全てにフィットするワケではないのだ。

さらに、日本の組織においては、固有の特殊事情がある。今に続く、日本の会社組織の基本構造が固まったのは、いわゆる高度成長期である。この時期は、「金の卵」といわれたように、経済成長に対しマンパワーの供給が最大のボトルネックとなっており、労働市場が極端な売り手市場であった。これは、グローバルに見ても、かなり特殊な状況である。そして日本の会社組織のあり方や雇用制度は、この時期の労働市場を前提に成立している。

それは、質の割に安い労賃をベースに、加工貿易で儲ける、中進国モデルのビジネスを、労働市場が売り手市場の中で効率的に行うために特化した組織といえる。日本的労務慣習の象徴といわれる、終身雇用・年功給与というシステムば、この状況を如実に反映している。そもそも、加工貿易型の中進国モデルを脱して久しい。労働市場も一変し、少子高齢化といっても、もはや売り手市場ではなくなっている。

この面からも、ポスト近代社会のリーダーのあり方を目指さなくてはならない日本には、今までのような会社組織はそぐわないことがよくわかる。もちろん、これからの時代でも、日本において大量生産型のビジネスモデルを取ることがふさわしい事業もあることは間違いない。しかし、そちらのほうが特殊な業態なのだ。多くのビジネスにおいては、もっと送り手の顔が見えるモデルを創出しなくてはならない。そう考えれば、若者の就活など笑止千万である。そんな手間をかけるなら、自営で創業した方が余程良い。もはや時代は、そちら側なのだ。


(12/01/20)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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