責任のありか





かつて大日本帝国憲法が施行されたとき、想定されていた「憲政」とは、立憲君主としての天皇を有責任階級が支え、国家運営の主体として無責任階級としての大衆と対峙するという、19世紀西欧型の体制だった。有名な久野収氏の「密教・顕教」論の「密教」である。それが、20世紀とともに襲ってきた大衆社会化の波の中で変質し、藩閥貴族の「元老」がいなくなるとともに、有責任階級が消失し、天皇の元に無責任階級の大衆が跋扈する「顕教」体制になってしまった。

その前提として、有責任階級としての貴族に代わり、それとは全く異質の、大衆の中から偏差値だけで選ばれた官僚が、政治機構や陸海軍の中枢を担うようになったコトが挙げられる。官僚の無責任さは、今にはじまったものではなく、その嚆矢からビルトインされていたものなのだ。その完成形が、戦時下に始まり今に続く。俗に「40年体制」といわれる官僚制中心の社会制度である。戦前戦後を切り離す歴史観は、まさに「40年体制」としての連続性を隠蔽すべく、官僚たちによって捏造されたものなのだ。

存在しない名目だけの責任主体に責任を押しつけ、当事者は責任を回避する、いわば「下だけ」しかない体制。これこそ、「顕教」の完成形である。そもそも帝国憲法の第三条に「天皇は神聖にして侵すべからず」と規定されているにもかかわらず(誤解が多いが、この条文は「天皇は政治的責任主体にならない」という、立憲君主制の基本を述べた条文であり、同様の条文は、当時のヨーロッパの立憲君主国の憲法に必ず見られる)、その名の元に責任を押し付ければ、たちどころに責任は霧散してしまう。

ある意味、この発想こそが、日本の大衆社会の特徴ということができる。実体のない、いわば「絵に描いた餅」の責任主体を想定し、みんなでその「餅」をうやうやしく持ち上げることで権威化し、あたかも存在するかのように見せることで、そこに全責任を押し付け、自分は一切責任を問われない環境を作る。江戸時代、名を捨てて実を取った庶民の末裔が、20世紀を迎えて世界を席巻した大衆社会化の波を利用して作った社会構造がこれである。

昨今、右翼的な主張に共感するヒトはけっこう多い。しかし、硬骨漢の憂国の士はけっこう少ない。大衆レベルではほとんどいない。というより、昨今の右翼的主張というのは、右翼的なメッセージの方が権威性が高いので、その権威を借りるべく、そこに擦り寄っているヒトから支持されているという面が強い。虎の威を借りる羊である。みんなで担げば権威になる。かくして、大衆の間ではいわば「民主的な右翼」が跋扈することになる。

基本的に「甘え・無責任」な日本の大衆は、圧倒的に強い存在を前提に、その権威を借りたい、強いモノに巻かれたいという志向が極めて強い。先日最終回になってしまったが、長らく「水戸黄門」が、ワンパターンの代表とされつつも人気を集めていたのは、「葵の紋所」のご威光に、強い共感を感じるヒトがおおかったからだ。葵の紋所のついた印籠が欲しい。自分もそれをかざして見得を切りたい。というワケである。

この傾向は、どの世代でも幅広く見られる普遍的なものだ。逆に、世の中が安定成長になってから育った若者のほうが、エスタブリッシュされた権威が多い中で育った分、かえって依存体質が強い。高度成長期は、社会的にフロンティアがたくさんあったから、アイディアと努力次第では、前人未到の成功を手に入れることも不可能ではなかった。しかし、時代とともに、その可能性は一段と小さくなっている。

そう考えると、「就活」が一部の人気企業に入るためのものであり、労働市場全体からすると、定員が充足できない求人の方が多いというアンマッチングが恒常化していることもよくわかる。学生の多くは、やりたい仕事があるから就職するのではない。有名な会社のブランドや肩書に依存したいからこそ、その会社に入ろうとするのだ。その会社の権威を笠に着ること自体が目的なのだから、おのずと権威のある会社に殺到することとなる。

今の若者は、自分が桃太郎になろうとはせず、身近に「桃太郎」を見つけて、桃太郎の犬、猿、雉になりたがる傾向が強いといわれる。たとえば同級生に、親が映画ファンで、千枚以上のDVDコレクションが家にあるヤツがいれば、自分で集めるより、そいつと仲良くなって、その資産を利用させてもらった方がおいしい、という行動様式である。ある意味、社会資本の蓄積が進んだからこそ起こった現象である。

それだけなら、貧しく何もないところからスタートした日本も、経済発展により、フロー形の社会からストック形の社会に転換したという証に過ぎない。しかし、「桃太郎の犬」は、桃太郎の威光を笠に、そんじょそこらの野良犬とは違うぞ、という態度を取るようになる。ストックを持っている人間は、自分自身がいかに謙虚にしていたとしても、周りの人々が、褒め殺しではないが、勝手に権威にしてしまうのだ。

この構造を決定的に変えてしまうには、本当に自ら責任を取って行動するリーダーが登場するしかない。自分で腹をくくり、即断即決でリーダーシップを発揮するなら、責任をなすりつけることも、権威を借りることも不可能である。日本社会が外圧に弱いのも、グローバルなリーダーシップは、自ら責任を取るところから生まれるためである。そう、リーダーさえ出てくれば、がらりと変わってしまうのだ。問題は、そういうリーダーが存在するかどうかなのだが。


(12/02/03)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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