時代は変わった





かつて日本社会は、「一億総中流」と呼ばれた時代があった。それは、もはや歴史である。歴史となった以上、それは今の時点から振り返って評価すべき対象である。良きにつけ、悪しきにつけ、中流意識は高度成長の基盤であり、原動力であったコトは間違いない。では、マーケティングという視点から見た場合、中流意識はどういう影響をもたらしのだろうか。

「一億総中流」といわれた社会のあり方と、それをベースとした製造・販売戦略は、高度成長期を中心とする「日本型マス・マーケティング」の根幹を成してきた。そこには、多大なる影響があったことは間違いない。結果から判断すると、短期的視点からはプラス、長期的視点からはマイナスの効果があったということができる。この傾向は、製造業においても、流通業においても変わらない。

製造業的には、既存の技術の組合せで対応できる「枯れた」製品を、スケールメリットを活かして販売で来た分、これらの商品が安定的な収益の基盤となってきた。これが短期的なメリットである。しかし、その「おいしさ」に安住するが余り、経営のイノベーションや製品の高付加価値化といった、事業の高度化に繋がるモチベーションを下げてしまい、その後の日本経済の低迷の基盤を作った。これが長期的なデメリットである。

結果的にプロダクトアウトを基盤とした経営を成り立たせてしまったため、本質的にマーケットインの発想を取り入れることができなかった。結果的に、多機能・高機能を追求したものの、受け手の価値観を汲み取ることができず、「ちょっと高めの安物」を輩出させただけに終わってしまった。スゴい機能のスゴい新製品のように見えても、中身はコモディティーそのものでしかない。

これでは、もとがコモディティーなだけに、すぐキャッチアップされ、価格競争に陥ってしまう。コモディティーの価格競争で勝ち残るノウハウはあるし、それは今、グローバルな競争の中で生き残れる武器の一つとなっている。しかし、日本の製造業にはそのノウハウはない。価格競争では、生産コストの相対優位以外の勝ち方を知らないからだ。1950年代以来の、主要輸出品の盛衰を見ていれば、それがわかる。

一方流通業においては、もう少し複雑な様相が見られる。流通業における高度成長期からの変化というと、百貨店、GMSといった、かつての主力業態の滅亡が特徴的である。このうち百貨店の衰退は、都会の中心部に住む例外的な人たちを除くと、人々、特に若者の行動半径が小さくなったことが最も大きな要因である。かつては、都心の繁華街、とりわけブランド力のある百貨店に行くことが、ある種のレジャーであった。

こういう状況下においては、同じ品物が手に入るとしても、都心のステータスある百貨店で購入した方が、満足度が高かったからこそ、百貨店にお客さんが集まった。北関東の諸都市からは、東武の特急やJRを使えば、一時間あまりで東京の都心までこられる。しかし、その時間とコストの壁を越えるほど、誘引力がなくなった。いつもの足になっている自家用の軽で、近くのショッピングセンターに行く方が、知り合いにもあえるし、ゲーセンもあって時間が潰せるし、ずっと楽しいく充実度が高いのだ。

これに対し、中流の崩壊・中流の下流化がもたらしたものが、GMSの衰退である。ニュータウンに住む層は、中流幻想がある間は、背伸びをし続けていた。価格帯が完全に違う、都心の百貨店に売っている高級品には手が届かなくても、GMSで売っている商品の中でも、価格訴求一辺倒ではないものなら手が届く。売りやすく買いやすいマーチャンタイジングに特化した。これが、製造業の「ちょっと高めの安物」戦略と呼応し、ボリュームゾーンの形成に貢献した。

ダイエーの成功と衰退は、その象徴だ。決して高級品なのではなく、「高めの安物」というマーチャンタイジングは、「上昇志向の強い中流意識」という、当時のボリュームゾーンとマッチした。しかし、これはいいかえれば、「上昇志向を持っているから、当人は中流と思っている」だけの話であり、その実態は「下の上」でしかなかった。そういう意味では、まさにターゲットに密着したマーチャンタイジングではあった。

こうやって見て行くと、結果的にみた場合、今となっては「中流意識」は、マーケティングという面では余り貢献していないと言わざるを得ない。それに加えて、企業経営という視点からは、短期的に得た利益を、きちんと企業体力の強化、体質の改善に結び付けられないばかりか、バブル経済からバブル崩壊というカタストロフィーに導いてしまった、「日本的経営」の構造的問題を生み出した主犯こそ、「中流意識」ということができる。

そしてこの問題は、すでに過去のものとなっているワケではない。低迷する日本企業の多くは、決して成功体験とはいえない「一億総中流幻想」をベースとした「日本型マス・マーケティング」を、唯一無二の成功事例としてありがたがり、そこから抜け出すことができなくなっている。日本の社会自体も、この中流意識の呪縛から抜け出せないでいる。一度、日本型企業の在り方自体をリセットしなくては、この体質は変わらない。

この答えは、潤沢なフローではなく潤沢なストックを持つという意味で、中流ではなく、生まれながらにして上流な人たちか、今ボリュームゾーンとなっている、上昇志向を持たない、地に足のついた「ふつ〜」の人たちか、どちらかの中からしか出てこない。上昇志向を持ち、努力すれば報われると思ってきた、「中の上」層が、世の中を引っ張って行く時代は、貧しい国がテイクオフする時期特有のものである。世の中全体が、一度、現実を客観的に見つめなくてはいけない時なのだ。


(12/02/17)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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