カタガキの無力化





かつて80年代のニューメディアブームの頃から、「新しいメディアが社会を変える」というような議論は、掃いて捨てるほど繰り返されてきた。それから30年、そういう議論が的を射ていたのなら、世の中は大きく変わってよさそうだが、現実は十年一日、いや三十年一日のごとき変わらなさである。高度成長期を知っている人間なら、80年代以降の30年の変化より、1960年代の10年間の変化の方が余程激しかったことを覚えているだろう。

それは、インタラクティブメディアについても同じだ。インターネットが普及しだしてから、もうすぐ20年である。もはや「オオカミ少年」のようなブラフが通じる時期ではなく、過剰な期待をアオることが利益を生む時期でもない。まさに、歴史として総括をしなくてはならない時期である。インタラクティブメディアの変えたものは、一体何だったのか。インタラクティブになっても変わらなかったものは、一体何だったのか。

よく、新聞などのエスタブリッシュされたジャーナリズムで取り上げるのは、ジャスミン革命など、情報の民主化が社会の民主化を生み、それまで光の当らなかった人たちがクローズアップされるようになってきた、という論調である。確かに、インタラクティブメディアはコンピュータシステムなので、機械のやることだけに「民主的」で「平等」である。それだけに、機械ならぬ「機会の平等」をもたらすことは確かだ。

確かに独裁者が君臨し、あらゆる利権を独り占めしているような開発途上国では、機会の平等が実現していない。独裁者の権力の源は、機会の不平等をコントロールするところにある。そのような国々では、官製のメディアの情報は誰も信じず、人々はひたすら「口コミ」で信じられる情報を共有し合っていた。だからこそインタラクティブメディアは、強力な「口コミ」伝達ツールとして、諸手を挙げて受け入れられることになる。

それに対し、元から機会の平等が実現している市場社会では、インタラクティブメディアは、そういう面では大きなインパクトはない。たとえば、インタラクティブメディアだからといって、とんでもない人材が出てくるワケではない。動画投稿サイトでウケを取れるヒトなら、その手のオーディションに出れば、必ず合格できる。市場の競争性が担保されていれば、能力が高く結果を残せるヒトは、どこかでかならずチャンスがあるからだ。

こういう先進国で起こることは唯一、「ハダカの王様化」だけである。中身がないワリに、組織や権威のブランドに頼って、偉そうに上から目線で行動しているヒトは、あっさりと化けの皮が剥がれてしまう。機会の平等が実現している社会において、インタラクティブメディアのもたらすものは、明らかに差異があるのに、結果の平等を求めようという人たちに対する天誅である。持たざる者に、チャンスを与えることはないと同時に、持たざるくせに、いい思いをしている連中は許さないのだ。

ちょっとブラックな企業や、ウサンくさい人間が、「いかにも」なことをすると、即座に「炎上する」のも、その現れである。ちゃんと中身がある善良な社会的存在なら、炎上させようと思ってけしかけても、全然火がつかない。火がつきそうになっても、「そんなことはないよ」の一言で、くすぶりもせず終わってしまう。逆に、みんなおかしいぞと思っている相手なら、一発で炎上する。ゴマかし切れていると思っているのは、当人だけなのだ。

これは、日本のジャーナリズムについても言える。世の中からは見放されているのに、自分だけが「自分が権威」と思い込んでいる大新聞は、まさに「ハダカの王様」である。記者クラブ制度で、ジャーナリスティックな視点を持っているフリージャーナリストを排斥し、自分たちの中身のなさをゴマかそうとする。そう思うと、中央紙がインタラクティブメディアを目の敵にするのは、自分の無能さ、弱みを知っているせいか?とカンぐりたくなる。

一方、インタラクティブメディアでも、マスメディアでも、変わりなく「芸人」が強いというのも、それの裏返しである。芸人のネタは、動画投稿サイトではなくてはならないコンテンツの一つである。ウケるネタは、どこでも共通なのだ。機会の平等が貫徹するバするほど、勝ち組はどこでも勝ち組に、負け組はどこでも負け組になる。それが、「フェア」ということなのだ。負けるはずの者が勝ってしまうことこそ、アンフェアであり、不正が行われた証である。

中身がないのに、既得権だけでおいしい思いすることができなくなるだけのことである。肩書が意味を成さなくなり、どこでもフェアな競争市場が実現するにすぎない。それ以上でも、それ以下でもない。そう考えると、学生たちが「いい企業」に入ろうと、インタラクティブメディアを駆使して「就活」するというのは、滑稽千万である。ヒマラヤなどの登山隊は、食料の豚や鶏を、自ら歩かせてキャンプまで運び、そこで料理するのだが、どことなくその姿を思い浮かべてしまうではないか。


(12/02/24)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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