陰謀説





世の中には、「陰謀好き」なヒトがけっこう多い。なんでもかんでも、誰かの「陰謀」ということでかたをつけたがる。おかげで、ちょっと前までの週刊誌とかでは「陰謀説」が横行し、「陰謀の黒幕」が脚光を浴びることになる。日本人に「陰謀好き」が多いのには、それなりに理由がある。そこで、「陰謀好き」な人々を、その動機からの五つのタイプに分けて分析したい。

まず第一のタイプは、「自分が理解できない」モノを何とか納得するために、陰謀というロジックを必要とするタイプである。よくある「ユダヤ金融資本の陰謀」みたいなのが、このタイプの典型である。そこで「陰謀」といわれているものは、わかっている人が見れば、「競争市場における最適化戦略」でしかない。企業戦略だったり、投資家の戦略としては、極めて正統的・論理的な選択である。

しかし、日本人には「戦略的行動」の意味がわからないヒトが多い。戦術的行動までは理解できても、戦略となるとからきしピンとこない。これは、全体最適という考えかたがわからないからである。自分が見える範囲での戦術的な「部分最適」は得意だが、組織全体を考えた「全体最適」は全くわからないし、そのためのプロセスが行われても理解できない。そこで、それを「陰謀」と言って納得するワケである。

次のタイプは、「説明の回避」である。説明したくない、説明すると不利益がある。だから、曖昧にして済まそうという考えを持った人たちだ。理由がわからないまま筋だけを通そうとするから、「陰謀である」という結論になる。実は結論でもなんでもないのだが、それで議論を終わらせてしまうために、「陰謀」を持ち出してくる。

「陰謀」を語ることにより、見えない化、あいまい化を図るやりかただ。けっきょくは、「臭いモノにはフタ」とばかりに、ブラックボックス化してしまうために、陰謀といいたがるのだ。しかし、それは「陰謀」ではなく「隠蔽」である。このモチベーションは、官僚の無責任行為と同じなので、日本の組織においてはよく見られる。どちらかというと、これはその論理を持ち出す人間より、それで許してしまう側の責任も大きい。

さて、もっとポジティブに陰謀を楽しむタイプ、というのもいる。それは、おどろおどろしいオカルト好きの人たちである。怪奇現象も、科学的に説明されてはつまらない。仰々しいマジックも、タネ明かしをされたらつまらない。とにかく、パワースポットや怪奇スポットにハマって、ナチュラル・ハイになりたいヒトたちである。小学生でもわかるように、その理由が白日の元に解き明かされてはつまらないのだ。

まか不思議な因果を含めないと、なんか面白くない、というヤツだ。当たり前の結果が、当たり前に得られたとしても、それを「陰謀」と名づけるだけで、なんか興味津々で面白そうな気がしてしまう人たち。それが何なんだ、と突っ込んでしまえばそれだけだが、まあ、所詮はマスターベーションだから害はない。芸能界の裏情報ゴシップネタと同じで、かわいいモノである。

中には、悪意のある「陰謀説」もある。何でもかんでも、相手の責任にしたがるタイプが持ち出す「陰謀説」がこれである。自分の非は、絶対に認めたがらない。それだけでなく、自分に非があるものも、相手に責任を押し付けたい。俺の物は俺の物、他人の物も俺の物。所詮は自業自得であっても。被害者ヅラしたい、あわよくば補償もとりたいという、厚顔な人たちだ。

そういう人たちが、どうみても屁理屈がつけられないときに持ち出すのが、「陰謀にハメられた」、というセリフである。共産党とかが、なんでも大企業のせいにするのと同じである。共産党よりは、グローバルに活躍する大企業の方が、よほど社会的責任を果たしているし、よほどコンプライアンスを守っている。しかし「革新政党」にとっては、全て自分が正しく、全て相手が悪いのでないと、都合が悪いらしい。

最後のタイプは、権威が欲しい人たちである。こういう人たちは、強い権威にすがることでしか、自分のアイデンティティーを保てない。典型的には、狼の威を借りる羊ではないが、一人では何もできないくせに、権威に頼ると、たちどころに威張りまくるタイプである。この手の人たちは、何よりも「紋所」がほしい。その爽快さを求める人が多かったからこそ、テレビドラマの「水戸黄門」がヒットしたのだ。

まさに「陰謀」を持ち出すのは、「正義の印籠」の裏返しである。悪の権化を設定し、超強力な悪玉があらゆる陰謀を仕組んでいるのに対し、自分はその対立者であり、正義の味方なんだと正当化する。あるいは、自分の頼る権威を、一層スゴく見せようとする。ショッカーじゃないが、特撮物の悪の組織が強いほど、ヒーローは輝いて見えるということなのだろうが。所詮そのレベルでしかない。

結局、こうやって見て行くと、全てのタイプに共通するのは、「自分のありのままを受け入れられない」ということになる。高度成長期の日本では、貧しかった分、上昇志向が強く、「ありのまま」を受け入れられる人は少なかった。しかし、安定成長以降に生まれた世代は違う。こう考えると、団塊世代や団塊的なメンタリティーのヒトに、「陰謀説」の人気が高いのもうなづける。そういう意味では、これも昭和のノスタルジーといえないこともない。


(12/03/09)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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