世代の視点





世代論を考える場合、一番陥りやすい落し穴が、「立ち位置の違いから起きる、見え方の違い」である。世代間の違いをきちんとデータから読み取れるヒトは、この違いを上手に相対化して捉えている。逆に、せっかくのデータがあっても、ステレオタイプな読み取り方しかできないヒトは、全てを「自分の立ち位置」から読み取ろうとしていることが多い。見え方が違うからこそ、世代間の差異が生まれることを忘れてはならない。

客観的にデータを読めるヒトでも、こういう違いが生まれてくるのだから、「こうあるべきだ」とか「こうあることこそ正しい」とか、特定の価値観や特定のイデオロギーを込めてデータを読んでしまうことなど、こと調査という視点からは言語道断である。だが、世の中的には、こういう見方をする人が多いのも確かだ。だが、これはもう調査以前の問題なので、ここでは触れない。いつも言っているように、マーケティングに善悪判断はないのだ。

さて、このような世代の違いを読み取りそこなう典型的な例は、世代間の環境に大きな変化があった場合だろう。高度成長期や列島改造ブーム以前の「田舎」に育った人は、自分たちの育った時代の風土こそ本来の「地方」であり、高速道路や新幹線が開通し、一人一台の軽自動車を足とし、全国チェーンのショッピングセンターが展開する今の「地方」を見て、「田舎」は失われてしまった、と嘆きがちである。均質化した「地方」など、もはや「田舎」ではない、というワケである。

しかし、それはあくまでも「その世代」の「ジモティー」にとっての「地方」観でしかない。その当時の生活と比べれば、日本全国が均質化したように見えるかもしれない。しかし、日本のローカリティーは、決してなくなっていないし、全てが均質化したワケでもない。今、その地方に育った若い世代にとっては、今でも充分にその地方らしさはあふれているし、そこに愛着や郷愁を持っている。ただ、その発露する形態が少し変わっただけのことである。

確かに、全国チェーンの量販店やコンビニは、ファザードや内装を見る限りにおいては、標準化が進んでいる。しかし、そこで売っている食材や調味料、菓子などは、決して一緒ではない。人気番組「秘密のケンミンショー」ではないが、売場の棚を見て行けば、わかる人にとっては、それがどの地方の店なのかすぐわかる。同様に、東京在住の地元出身者なら、地元にしかない食材を見つけて、なつかしさを感じるだろう。

ナショナルブランドの商品でも、今の日本ではエリアマーケティングが進んでいる。インスタント麺やスナック菓子などは、エリア限定の商品が多いだけでなく、同じブランドの商品でも、エリアにより味を変えているモノが多い。最近では、この手の商品を、出張帰りなどの「お土産」に買ってくる人も多くなった。コンビニのおでんでも、エリアごとにつゆの味付けや、中身の具も違っている。

家の作りもそうだ。プレカットや2×4など、工場で作られた材を組み合わせて作る工法が主体となり、サッシやドアも建材メーカー製の既製品を使い、壁も石膏ボードに壁紙を張る。確かに、旧来の在来工法と比べると、共通したり似たりした部分が増えたことは確かだが、日本の気候は、全国同じ家で済むほど均質ではない。そういう共通の手法を使いながらも、各地の気象条件に合わせて、それぞれの地方なりの工夫はちゃんと続いている。

もっというと、高度成長期や列島改造ブーム以前を知っている世代でも、純粋に都会育ちのヒトから見れば、変化した「地方の生活」以上に、生活が変わっても変化しない「山河や風土」の違いのほうに着目するだろう。北海道有珠岳のように、この20年ほどで景色が変わってしまった地域もないではないが、高速道路が通ろうが、道路に融雪装置がつこうが、山の形そのものは100年やそこらでは変わらないのだ。

逆に考えれば、今の若者のほうが、より微妙な違いを感じ取り、そこに郷土愛を感じられるような、繊細な「地元観」を持っているとも言える。年寄りが、大雑把なマクロな見方だけで、「均質化」と断じるのではなく、若者の視線から見て、何が違い、何が同じに見えるのか。そのミクロな視点もあわせ持って初めて、世代間で何が変わって、何が変わらないのかが見えてくる。言うのは簡単だが、やるのはけっこう難しい。このへんが、マーケティングの面白さでもあり、難しさでもある。


(12/03/30)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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