コーホート分析の想い出




1980年代以来、いろいろなカタチでマーケティング・プランニングに関わってきた。その間には、いろいろな「ブーム」があり、いろいろな手法やツールが開発されては、いつの間にか飽きられ消え去ってゆくということを繰り返してきた。というより、やることはほとんど同じでも、目先を変えて新鮮さを演出し、何かスゴいことが起こりそうなイメージでブーム化してきたというべきだろうか。

まあ、自己反省も含めて言えば、こと日本においてはこの領域を牽引してきたのは広告業界の人間であり、「差別化と陳腐化」というのはお手のモノ。まさにそれ自体がオーソドックスなマスマーケティング手法の王道であり、マーケティング手法のプロモーションにマーケティング手法そのものを応用したといえないこともない。「紺屋の白袴」が多い業界だが、その是非がさておき、それなりにきちんとやってきたということだろう。

さて、ことマーケティング分析手法については、それを主導するのが統計学とかアカデミックな方々であることもあり、プランニング手法に比べれば、この30年間、地道な展開をしてきたということができる。その間には、エポックメイキングな手法がいくつも開発されたが、その中でもインパクトが大きかったものの一つが、コーホート分析の実用化である。時期的には、90年代の終わりぐらいであろうか。

それまででも、理論的にはコーホート分析の手法は開発されていたし、社会統計的なものを利用した分析は行われていた。しかし、これがマーケティング分析に応用できるようになったのは、IT技術の圧倒的な進歩によるところが大きい。データさえあれば、デスクトップでもローコストで解析可能になった。ビジネスとして行われるマーケティング分析では、この費用対効果というファクタが重要なのだ。

こと日本のマーケティング界においては、それまでも「世代論」という視点は圧倒的に人気があった。これは、日本でマスマーケティングが導入された時期が、ちょうど団塊世代が社会人となって消費マーケットに参入しだす時代とオーバーラップしたため、何でもかんでも「世代の違い」に帰してしまうのが一番説明しやすかったコトに由来している。それだけに、日本の「世代論」は、観念的・文学的で決して科学的ではないという構造的問題があった。

その文脈では、コーホート分析でいう、純粋な「世代効果」だけではなく、「時代効果」「年代効果」も含めて「世代」として論じられていた。その結果、どんどん「世代」の意味性は拡散した。「若者論」は、年代効果でなくては意味がないが、「団塊世代が20代だった頃」を基準に語られるようになった。未だに「最近の若者は覇気がない」などといわれているが、これでは年代論としては自己矛盾を抱えている。

世代を問わず、特定の年代に共通して現れる現象が「年代効果」であり、若者のそのような傾向を分析して初めて「若者論」となる。この構造的問題はその後、70年代、80年代と時間が過ぎるとともに、いわゆる新人類世代など、あらたな「世代」が現れてくることにより明らかになってきた。しかしそれは、もとが抽象的な議論である以上、感覚的言葉がぶつかり合うだけの、不毛な議論しか生まなかった。

この流れに終止符を打ち、科学的視点からの意味のある「世代論」を構築したのが、コーホート分析の普及である。それ以前にも、観念的議論の中ではあるが、「世代」「年代」「時代」の違いに着目した論者はいる。その多くは、80年代において、ポスト団塊世代の側から、団塊的世代論への違いや違和感に注目し論じたものである。ある意味、前回触れた「まるホ・まるム」も、それと同じルーツを持つものといえる。

とはいえ、コーホート分析には、長期に渡って同じ質問を幅広い年代に対して調査したデータが不可欠である。そして、過去のデータをさかのぼって調査することは、タイムマシンでも使わなければ不可能である。マーケティング分析関連でこういう条件を満たすデータは、ビデオリサーチのACR調査をはじめとして、日本では数種類しかない。かくして、5年もしないうちに、分析可能なデータは、分析し尽くされてしまった。

しかし、そこから得られたファクトとして、20世紀の日本においては、社会の構造変化・環境変化の速度が速かったため、人格形成期における「環境からの刷り込み」が世代により大きく違い、これが世代の違いを生み出していることが導かれた。この構造さえわかれば、コーホート分析が可能なデータがなくても、「世代効果」を読み取ることは可能である。すくなくとも、マーケティング分析的には必要にして充分である。

かくして、ポスト・コーホートの世代論は、それまでの観念論を脱し、理論的に分析可能なものとなった。今の30代以下の世代に対しては、後々コーホート分析可能なデータは、着々と蓄積されている。それは、明らかな分水嶺となった。今でもまだ、旧態依然とした「観念論的世代論」を振りかざすヒトはいる。しかし、それ自体が「古い世代」に属する証となっている。世代論そのものが、世代を切り分ける踏み絵となっている。これは、なんとも皮肉な構図ではあるが。



(12/04/06)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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