普遍性





ワリと物持ちがいいということなのかもしれないが、押入れの奥を探すと、けっこう昔若い頃に購入した衣類が、そのままキープしてある。その中には、高校生の頃に清水の舞台で買ったリーバイスのジーンズが、伝世品でヴィンテージになっちゃったなんてのもある。まあ、結果的に体型が学生時代と余り変わらないということもあるが、ときどき、なにか面白いモノはないかと、セルフ古着屋モードで漁ったりする。

今シーズンも、バブル初期に購入した、当時ハヤりの国産デザイナーズブランドのジャケットを見つけ、けっこう気に入って愛用していた。これが、なかなか評判よくて、いろんなところでウケていた。まあ、最近のカジュアルファッションといえば、ファストファッションに代表されるローコスト化で、そういう時代の手を掛けた作りはトンとご無沙汰で新鮮に見えるということもあるが、なんせ80年代末、25年近く前の品物である。

25年前のジャケットが、今でも着こなしで通用するためには、二つの前提が必要である。一つは、25年前のアパレル業界が、ある水準を超した完成度を持つ品質やデザインを実現していたこと。もう一つは、受け入れる社会の側の価値観が、基本的な部分が通奏低音として変わっていないことだ。この二つが相まって初めて、25年の時空を超えた評価を得ることができる。これは、それ以前の日本社会と比較することで明確になる。

それを、そのジャケットが作られたさらに25年前と比べてみることで検証してみよう。バブルは80年代の後半〜末期に始まったため、その25年前は1960年代初頭になる。ということで、1960年と1985年を比較してみる。まず、前者の商品企画力・開発力の問題である。これは、国産車の市場を見るとよくわかる。1960年製のクルマが1985年ごろにどう受け止められたか。これはその時代、すでに広告・マーケティング関係の仕事をしていたからよくわかる。

昭和30年代においては、トヨタ以外の国産メーカーは、日産のオースティン、日野のルノーなど、乗用車においては欧州メーカーのノックダウンからスタートしていた。自主ブランドのクルマも製造しいたが、戦前の車種とそのノックダウン車種の強い影響下にあった。この時期の国産車は、古臭いかパクりか、どちらかがほとんどだった。1960年の日産車「ダットサン1000」など、80年代においても、すでに年季の入ったクラシックカーだった。

それに引き換え、バブル期のクルマは、初代のセルシオやシーマをはじめ、当時時代の寵児だった「パイクカー」を含め、今でもそれなりに街中で見かける。それも、マニアが乗っているヴィンテージカーというのではなく、実用の足として使われていたりする。もちろん、燃費にしろ排出ガスにしろ、今の基準からすればかなりプアではあるが、移動する道具として見る範囲では、乗ったり使ったりするのが憚られる代物というワケではない。

こうやって見て行くと、1960年代に欧米のクルマへのキャッチアップに努め、それなりのクルマを作れるようになった国産車メーカーは、1970年代に入ってから、オイルショックによるガソリン高騰と、アメリカのマスキー法に代表される公害防止に対応すべく、技術革新を重ねた結果、世界的レベルで、基本的な品質やデザインをクリアできるようになったことがわかる。これはまた、日本車が世界的な競争力をもつ商品となり、世界各国で貿易摩擦を引き起こしたこととも呼応している。

後者については、音楽、それもポップヒットの流れを見てみよう。1960年のポップヒットといえば、プレスリーに代表される最初のロックンロールブームの波が去り、ニール・セダカやポール・アンカのような、ティンパンアレーと呼ばれたプロの作詞・作曲家が書いた曲をアイドルっぽい歌手が歌う、甘いアメリカンポップスの全盛期であった。この時代の音楽は、80年代といわず、70年代にはすでにオールディーズとして、ノスタルジーの対象になっていた。

それはそれでマニアはいたし、定期的にアルバムの再発も行われていたが、決して「生きた音楽」ではなかった。60年代末の「ロック・レボリューション」の影響は大きく、それ以前の音楽は、ビートルズなど時代を超えて影響力の大きかった一部のアーチストを除くと、その日から「過去のもの」となってしまった。一般の音楽ファンの耳からすると、60年代と70年代は、その間に大きな断層のある「不連続」なものであり、曲そのものの違和感があるものだった。

しかし、80年代と今との間には、そんな断層はない。マイケル・ジャクソンのスリラーにしろ、マドンナのライク・ア・ヴァージンにしろ、ラジオでも有線でも、今のヒットナンバーと並んで、日に何回かオンエアされている。過去の名曲であることは確かだが、決して古臭いものでも、ノスタルジーの対象でもない。数ある曲の一つとして、リニアに受け止められている。これは、受け手の側からすれば、「ポップスのしくみ」という本質的な部分が、80年代以降変わっていないと捉えられているからだ。

これは、別に日本だけの問題ではない。先進国においては、多かれ少なかれ共通している。確かに、60年代末においては、当時の先進国においては、一大文化革命と呼べるような変化があった。また、経済危機が全世界に行き渡った今となっては、先進国においては、20世紀型の産業社会が行き詰まり、好むと好まざるとにかかわらず、安定成長をベースとした新しいスキームに移行したともいえる。

そういう意味では、かつて宮台真司氏が述べた「終わりなき日常」が、世界的なモノとなったということもできる。もはやここまでくれば、それがいいかどうかなど、好みをいっている段階ではない。そういう状況になっていることを前提に、モノゴトを考えていかねばならないのだ。60年代末以前を知っている人間は、つい現状を異常な状況と見がちである。しかし今では、「変化した後」が当たり前の状況になっている。意識が状況についていけないというのでは、時代を生きてゆくことはできない。


(12/04/27)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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