人格





明治時代を19世紀と20世紀の二つに分けて、19世紀的な明治は良かったが、20世紀的な明治になって日本社会がおかしくなってきた、という考えかたには、歴史上の事実としてかなりの説得力がある。「坂の上の雲」の司馬史観のように、日露戦争までの日本軍はよかったが、そのあと悪くなってきたという見方とも共通している。しかし、その理由を考えることは、いささか複雑である。

一つ明確にいえることは、19世紀的な明治社会においては、リーダーシップをとったのが、江戸時代の環境の中で育ち、江戸時代の教育を受けていた人たちだったということが上げられる。20世紀に入ってくると、明治以降に整備された教育制度の中で生まれてきた秀才=エリートが、官僚機構にのっかってリーダーシップを発揮するようになるが、それ以前は、属人的な人間力がガバナンスの源であった。

一定以上の知識を持った人間を、一定以上安定供給するためには、確かに「近代的教育制度」は有効である。特に、列強に追いつき追い越すことが至上の課題となっていた明治期においては、相当数の技術者や能吏を確保することが何よりも求められていたため、このような教育制度に基づく人材育成は、それなりに効果を発揮したコトは間違いない。しかし、それはあくまでも管理職や現場の専門職についての問題である。

組織、あるいは社会のリーダーシップを取るべき人材は、管理職や専門職とは、求められるコンピタンスが異なっている。当然、その育成システムも違ってしかるべきものである。だが、不幸なことに、明治期の日本にはそのような複線的な人材育成制度を取れなかった。それだけでなく、江戸時代まで機能していた、日本伝統のリーダーシップ養成システムを、全否定してしまった。

リーダーシップは、知識の多さでも、偏差値の高さでもない。そういう教育により開発できるものではない、人格そのものからにじみ出てくるものなのだ。真の意味で豊かに育った人は、成金のようにガツガツしていない。足ることを知っているし、欲望を追いはじめたらキリがないコトも知っているからだ。このように、人格とは育ちがモノをいうモノなのだ。

自分より「持っている」相手を妬んだり恨んだりしても、何一ついいことがない。今の自分に満足する方が、心が余程豊かになることがわかっていれば、自然と謙虚になる。リーダーシップも同じである。管理職や専門職なら、多少貪欲なぐらいのほうがいい場合もある。だが、そういう人間がひとたび権力を握ると、私利私欲を追求することになる。1980年代以降の、日本の高級官僚の行状を見ていれば、それは明白だ。

そういう「俗物」は、いかに偏差値が高い秀才であっても、リーダーの座につくべきではない。しかし、組織の中を見渡しても、そういうタイプの人間しかいなくなってしまったところが、現代日本の不幸の源なのだ。「民主化」を進めるがあまり、平等意識が過剰になり、育ちが違うし、その結果人格が優れたヒトがいること自体を認めず、否定するようになってしまった。

しかし、それはあくまでも「認めず」「否定する」だけのことである。そういう人が絶滅してしまったワケではないのだ。リーダーを期待するのなら、なにより育ちの違い、人格の違いを認めなくてはいけない。そういう違いがあることを、互いに認め合うことができれば、おのずと人材は現れる。平等主義が機能しなくなっている今だからこそ、発想の転換が求められている。


(12/05/11)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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