因果関係





怠惰で刹那的で自堕落な人間というのは、いつの世でも、どんな世界でも存在する。ある意味それは性格的な問題であり、個人という意味においては、どういう集団であっても、相対的に勤勉な人間と、相対的に怠惰な人間とに、必ず分離することは可能である。だが、それらを一定数集めた、「勤勉なクラスタ」と「怠惰なクラスタ」という対比になると、いろいろ深いことが読み取れるようになる。

ある企業でも民族でも国家でも階層でも、ある特定の社会集団の中で、全体平均と比べて「勤勉なクラスタ」あるいは「怠惰なクラスタ」が、統計的に有意に多かったり少なかったりするのなら、それはその特定集団の特性を特徴づけているということができる。その善悪とか倫理的な評価はさておき、クラスタ間での、学歴や所得の違いと、この「勤勉」「怠惰」の比率とに強い相関があることはいうまでもない。

さて、刹那的で自堕落なままでも生きてゆけるかどうかは、経済状況や社会環境により決められる。貧しい社会では、生きてゆくことすらおぼつかない。こういう社会では、どういう性格であっても、生きて行くためには最低限勤勉でなくてはならない。しかし、生産性の高い環境なら、それなりに生きてゆける。砂漠や寒帯など、厳しい自然環境の地域と比べ、肥沃で実りも多い熱帯・亜熱帯の地域の方が、より刹那的で自堕落でも生きてゆける可能性は高い。

この「ことわり」は、近代社会になってからも同じである。食うや食わずの貧しい時代には、とてものほほんと生きてゆくことはできない。生きて行くためには、どんなに怠惰な性格であっても、最低限の貪欲さと努力がなくてはならない。ひとまずこの段階においては、「勤勉さ」も「怠惰さ」も、それがストレートに露見してくる余裕はまだない。高度成長期までの日本人が「勤勉」といわれたのは、要は貧しかったからに他ならない。

しかし、経済が成長し、多くの人たちにその果実の分け前が手に入るようになると、元々持っている性格の違いが大きく影響するようになる。豊かになっても、勤勉でいられるタイプの人間。豊かになってしまったら、それ以上を求めなくなるタイプの人間。自然環境が豊かな地域と同じように、社会が豊かになると、刹那的で自堕落でも生きてゆける可能性は高くなる。豊かな時代になってから育った人間では、この違いは顕著である。

日本に当てはめて考えてみると、団塊世代までの世代においては、人格形成期であった貧しい時代の刷り込みが原体験になっているだけに、豊かな時代になっても、さらなる上昇志向が見られた。しかし、安定成長気になった70年代半ば以降に育った、団塊Jr.世代以降の世代になると、もはやそういう画一性は見られず、元々持っていた二種類の人間性の違いが明確になってくる。

いろいろな調査で指摘されていることだが、ある人間の生活態度と、その人パフォーマンスとの間には、強い相関がある。早寝早起きだったり、毎日三食を決まった時間に取ったり、というような、きっちりした生活パターンをする人は、当然学校の成績でも、仕事の能率でも、パフォーマンスがいい。メリハリなくだらだらといつまでもゲームをしたりテレビを見たりする人や、気分で食事をするので間食が多い人は、当然パフォーマンスが悪い。

これは、早寝早起きや食事をきちんととることが理由なのではなく、もともと性格が勤勉なことが理由となり、その結果として生活パターンにメリハリが生まれるからである。同様に、だらだらゲームばかりしているからパフォーマンスが悪いのではなく、もともと怠惰な人間であることが原因となって、ゲームを始めるとヤメられなくなり、パフォーマンスも当然悪くなるという因果関係にある。どっちが原因で、どっちが結果かは明確である。

役所や教育関係の人の読み方は、ここのところがおかしい。早寝早起きで食事をきちんと取れば、成績が良くなり、生活態度をだらだらさせると、成績が悪くなる、と読みたがるのである。これは、教育行政や指導内容などをアピールするためには、性格そのものを変えることが不可能である以上、本当の原因を究明するよりは、自分たちの活躍によりそれが改善されるというストーリーにする必要があるからだ。

役所は、かつて社会調査のレポートで、そのデータをどう読んでも格差があるにも関わらず、「格差がある」と書くことを忌避していたように、自分たちの行政施策の正しさを「平等性」においている。教育関係者は、人間の性格は、全て教育により変えられるとしなくては、自分たちの存在意義が薄れてしまう。結果、本人には解決不可能なことまで、「当人の努力次第で解決する」という夢物語の中に霧散してしまう。

百歩譲って、勤勉でも怠惰でもない中間的な人間を、勤勉な方に持ってゆくためには、確かに教育も効果的だし、そのためには、まず生活習慣を管理するという考えかたもわからないわけではない。しかし、それで全てが解決するような物言いは、ことの本質を隠蔽するコトにつながる。豊かな時代になったい今だからこそ、人間類型の違い、性格的生活習慣の違いが、不可避的に大きな影響を与えているコトを見据えるべきである。

いずれにしろ、21世紀の日本においては、二種類の日本人がいるのは間違いない。そしてこの両者は、価値観も生きかたも違うのである。たとえば教育行政においては、ゆとり教育と詰め込み教育が、二元論的に語られがちである。しかし実際は、ゆとり教育を求める人も、詰め込み教育と求める人も、同時に両方存在している。勤勉な人・怠惰な人、そのどちらもが、自分の望む生きかたを選べるようにすることこそ、これからの日本には必要とされているのだ。


(12/06/15)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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