官僚達は「シュレディンガーの猫」の夢を見るか?





日本の近代の特徴は、戦後の「傾斜配分方式」に代表されるように、全体として貧しく限られていたリソースを、最大限に活用して「追いつき追い越せ」の経済成長を成し遂げたところにある。21世紀の今から振り返ると、その「功罪」を客観的に把握することができる。確かにメリットはあり、目的を達成することができたものの、そのために犠牲となったものも多く、デメリットもたくさんあった。

これらの問題は、その日の食い物にも困るような、貧しい国だっただけに、短視眼的に「目先の経済成長」だけを追うことしかできないことから引き起こされた。これらの負の遺産は、「貧すれば鈍する」で、安定成長に移行するためには無駄な二重投資が必要となってしまったという、純粋に経済的な問題だけではない。社会構造や人々の意識といった面でも、結果的に大きなシコリを残すことになった。

その最たる例の一つが、知識優先の秀才型能力開発・人間評価システムだろう。20世紀初頭において、列強に伍するためには、行政や技術、軍事をはじめ、教育や学問など広い範囲で、欧米最先端レベルの知識を備えた人材を、必要とされるだけ充当する必要があった。このため、近代の教育システムや人的資源評価制度は、先進国をリファレンスとし、そのノウハウや情報を、いかに促成栽培で身につけさせるか、という点が基準になった。

純粋な技術論で終始できる分野においては、それも間違ってはいない。しかし、問題はそのシステムが唯一絶対視されたため、本来技術論ではない分野の教育においても、技術教育至上主義が貫かれてしまった点にある。音楽や美術といった芸術分野においても、表現したい心より、演奏テクニックや作画テクニックが優先されるようになった。スポーツでも技術中心となり、「どうやって勝つか」という合理的な考えかたの指導はなく、それは精神論でゴマかされてしまった。

さて、そういう教育プロセスで育てられた秀才タイプの人間には、独特の秀才タイプの発想法がある。それは、「論理的判断と演繹的思考」の組合せでモノを考え、決定していくところに特徴がある。このやりかただと、ステップ・バイ・ステップでロジカルに思考を進めていくため、決定までに時間がかかる。また、決定までのプロセスで、論理的に他の可能性を否定しているため、一旦決まったことを変更するのも大変である。当然、激しい環境変化に対応できないことになる。

官僚の思考プロセスは、この秀才タイプの発想法そのものである。演繹的な思考であるがゆえに、過去の事例や実績を積み上げて、それをベースとしてその先を考えることになる。まさに、官庁特有の「前例主義」とは、利権を引き寄せるための我田引水的なものではなく、彼らの思考法そのものから、必然的に生まれてくるモノだったのだ。そうであるがゆえに、演繹的思考からは、必然的に、新しいモノ・創造的なモノは、極めて生まれにくいことになる。

こういう思考パターンは、官僚だけではなく、20世紀を通して日本社会にひろまり、どういう組織でも、どういう場面でも、ごくごく一般的に見られるようになった。高偏差値を追求するタイプの教育システムも(そうでない学校も、もちろん存在するが)、コレを助長している。ここに、日本の意志決定プロセスの問題点がある。実は、究極的な意思決定の判断と、その判断の結果を説明する論理とは別物なのである。決して、論理の先に意思決定があるワケではない。

これが象徴的に現れてくるのが、天才タイプの意思決定である。天才タイプのやり方は、秀才タイプとは全く違う。まず感覚的判断で、意思決定してしまうのだ。はじめに答えが出てしまっている。最初に結論ありきなのだ。しかし、感覚的判断でも、他人に説明するためには、ある程度ロジカルな流れを作らなくてはならない。そこで、結論から、それを他人に説明するための帰納的思考を行う。後付けで、論理的な説明ができればいい。これだと、斬新でクリエイティブな結論が、いくらでも出てくる。

一般の人からは、数学や科学というのは、論理的な思考の上に成り立っていると思われがちである。しかし、そういう自然科学でも、偉大な発見は思いつきから起こることが多い。ある事柄を、ゴールが見えないまま無手勝流で深掘りしても、そこからとんでもない大発見が生まれることは稀である。もっとも、誰かがそうやって残した膨大なデータを、違う問題意識を持った人が活用し、大発見につながることはないわけではない。

多くの発見は、地道な努力ではなく、最初に「この辺に答えがありそう」というヒラメキがあり、それをいろいろな論理やデータから説明したり、実験により実証したりして生まれてくる。場合によっては、「井戸を掘っていたら、石油が湧いてきた」というような発見もある。しかしそれは、あくまでも創発的な発見であり、石油を掘ろうと思って掘り当てたのではない。論理的な深堀りが、何かを生みだしたわけではない。

今の日本が解決すべき課題は、もはや、論理的・演繹的な思考で答えが出るようなレベルのものではない。ユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学、ニュートン力学に対する量子力学のように、新たなスキームが必要なのである。過去の経験や知識をいくら重ねても、「シュレディンガーの猫」は発想できない。そして、こういう発想の飛躍ができないヒトでは、いくらがんばっていただいても、永遠に答えにたどり着かない。そういう「論理的判断と演繹的思考」の秀才タイプには、早くお引取り願いたいものである。


(12/06/29)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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