日本人の「議論」





日本人は、国際的な交渉事が不得意だと言われることが多い。国際標準規格を決める会議とかでは、技術的評価はともかく、最終的には相手に有利な規格が落としどころとなってしまうことも多い。しかし、これは交渉というより、議論そのものが下手なのだ。グローバルなフィールドでボコボコにされてしまうのは、議論に勝つためのテクニックを持っていないので、簡単に相手にやり込められてしまうという、交渉以前の問題なのだ。

自分の立場や意見の主張はそれなりにするものの、いかにそれを相手に飲ませるか、いかに相手をねじ込むかという、議論に勝つためのテクニックについてはからっきしダメである。全く考えていない場合も多い。自分の意見を真摯に言えば、相手は聞いてくれるし納得してくれるなどという発想は、まるでガキのようにナイーブである。しかし日本人は、実際にはそういうマインドで議論に臨むことが多い。これでは、ボディービルダーと格闘家が対戦するようなものだ。

勝つための作戦、勝つためのテクニックにウトいのは、前にも述べたように、日本人のお家芸でもある。かなりの基礎能力を持っているスポーツ選手でも、期待されていたオリンピック等の試合では、あえなく敗退してしまうという事例は、何度となく目にしている。スポーツ選手としての肉体的ポテンシャルと、勝ちを取りに行くテクニックとは、別のコンピタンスである。格闘技などでは、体力的に劣っている選手でも、勝つためのテクニックに勝る方が「作戦勝ち」することも多い。

もちろん、日本でも「勝ちのコンピタンス」に長けている選手はいる。そういう選手は、きちんと世界レベルで答えを出している。しかし、どちらかというと、正統的な選手養成プロセスの外側で能力を獲得した事例の方が多い。バカ正直に正面からストレートに行くのが、スポーツマンとしてフェアだという考えがスポーツ界には多いが、これでは勝てるワケがない。ルールの隙間をついても、勝ちは勝ちなのだ。ハングリー精神とよく言われるが、それ以前の考えかたが違うのだ。

このように、自分の意見を主張することと、議論に勝つことは、全く違う「技能」である。自分の意見を主張しなくても、はたまた自分の意見とは違っていても、その場の議論に勝つことは可能である。これをやるのがディベートである。日本人はディベートが下手なのでも、ディベートの経験が少ないのでもなく、ディベートの基本になっている「議論に勝つテクニック」の存在自体に気付いていないし、それゆえそのテクニックを駆使することもできないだけである。

主張しなくても、守りが万全なら、その議論には勝てる。専守防衛でも、相手の攻撃を全て撃破できれば、議論は勝ちなのだ。だから議論に勝つには、相手が繰り出して来るであろう技を、前もって全て見抜き、その対抗策を完璧に打ち立てておけば万全である。自分の中で、相手方が論破に使うであろうあらゆる可能性をシミュレーションしておき、それを論破するための策を練るとともに、自分の論理に穴があれば前もって塞いでおく。

地頭のいいヤツは、大体こういう「策」を練るのが得意である。それは小さい頃から、親や先生から怒られないためのワザを工夫してきているからだ。怒られないためには、「李下に冠を正さず」が最善の手。つまり、相手が突っ込んできそうな隙を見せないことがカギになる。それには、自分の行動に対して相手がどう難癖をつけてくるか、あらゆる場合を想定して対抗策を練るのが一番いい。議論に勝つためのワザも、これと同じである。

議論に勝つためのテクニックを軽視するマインドは、明確な結論を出すことを避ける行動様式とも繋がっている。それが典型的に現れてくるのは、政策論争である。昨今の原発を巡る議論もそうだが、それぞれの立場が、それぞれの精神論を主張しているだけである、これでは、真っ当な議論になるはずがない。もっとも、利権狙いの日本型圧力団体としては、精神論に終始していた方が隠然とした利権が増えるということもあるが、合理的な政策論になることを回避しているかのようである。

その典型的な例が、核武装をめぐる議論である。反核の立場に立つとしても、核を持たないことを論理的に説明するためには、一度、白紙から持つべきか、持つべきでないか議論する必要がある。話題にはならないものの、過去そういうシミュレーションも行なわれており、合理的に議論すれば、日本の核武装がコスト的に間尺に合わないことは、簡単に証明することができる。もし、本当に核兵器を持つべきでないという結論を出したいなら、この議論をするのが一番早い。

しかし、「反核兵器」の方々は、なぜか核武装に関する合理的な議論自体を避けようとする。「核に関する議論自体をタブー化する」という精神論を広めることが、彼らの目的であるかのようにさえ見える。しかしこれでは政策論からは程遠く、いわば「反核教」という宗教でしかない。それだけでなく、逆に精神論に持ち込むと、正面切った核武装論議をすれば押し込めるはずの、核武装推進論が跋扈する余地を作ることにも繋がる。核武装の必要性を合理的に説明することは、かなり難しいというのに。

こんな低レベルの行動様式が罷り通ってしまうのだから、能天気な限りである。曖昧にしておいて、マジョリティーに紛れ込み、オコボレに預かるのを狙っているのだろう。日本が一番「ガラパゴス」化しているのは、議論に関する面ではないだろうか。ハイリスク・ハイリターンってのは、勝たなきゃ獲物にありつけない、ということなんだけどね。まあ、こういう連中が相手なのだから、日本の中でだけなら、議論に勝つのはけっこう簡単というのがミソかもしれないが。


(12/07/06)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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