撤退の美学





日本人は、撤退が下手というかできない。場合によっては、これが美点になることもあるが、大体の場合、ぐずぐずしている間に撤退のタイミングを逸し、死屍類類になってしまう。秀才が臨機応変の作戦変更が苦手なことは、すでに分析した通りだが、秀才エリートがリーダーとなった組織でなくても、撤退は苦手である。戦術だけで戦略がないことと裏表だが、戦術でも本来必要な、機を見るに敏な発想の切り替えは不得意なのだ。

その事例は、旧軍隊でも、官庁でも、企業でも、枚挙のいとまがない。その中でも日本の企業においては、企業の目的の何たるかを根本的に勘違いしているために、輪をかけて撤退が難しくなっている。永続するのは、ビジネスとしての企業そのものであり、個々の事業や、そのビジネスモデルは、単なる手段に過ぎないはずだ。ところが、現場にとっては、個別の事業そのものが、自分のアイデンティティーであり、存在意義そのものになってしまう。

織田信長が鉄砲隊を編成し、戦国時代の合戦のあり方を変えてしまってからは、弓兵隊は、一部の特殊任務を除き、敵軍を制圧する戦力としては、無用の長物になってしまった。こういう状況に臨んでは、弓術使いとしては、矜持として弓兵隊が廃止される事態は考えたくないが、戦略的に軍団を率いるものとしては、早急に鉄砲隊に置き換えるコトが望ましい。まさに、ここが戦略と戦術の違いである。

リーダーたるものは、戦略的に全体最適を考えなくてはならない。それが、現場の発想と根本的に異なる。しかし、日本の企業においては、現場の長が、そのまま発想や視点を変えないまま、エスカレーター式にトップに担がれてしまうことも多い。特に、製品に対して思い入れの強いメーカーほど、この危険性が高い。自分たちのメインの商品が、企業としてのアイデンティティーと同一視されがちである。

しばしば日本の製造業の問題点として、「高度成長期の成功体験に囚われすぎる」という指摘がある。確かに、現象面でみればそういうことなのだが、それはあくまでも結果である。問題の解決には、なぜ成功体験に囚われてしまうのか、という原因の究明が必須である。そして、その原因こそ、戦術的対応はあっても、戦略的視点からの判断ができない、日本企業の経営者のコンピタンス不足にあるのだ。

日本の組織においては、兵隊さんとか職人さんとか、最前線を支えている現場の人たちのレベルの高さが賞賛されることが多い。過去、それが強みとなってきたことも確かだ。しかし、その技術の高さをどう生かすかは、兵隊さんや職人さん当人が考えることではないし、それを期待することも間違っている。それを活用するリーダーシップがあってこそ、そのポテンシャルは活きるのだ。

そういう人材を育ててこなかったことも確かだし、右肩上がりの「平時」においては、ある意味クリティカルな判断も必要ないので、マニュアル通りにウマくこなせる「秀才」たちを責任者に据えても、それなりに組織は動いてきた。明治以降の日本の組織は、このやりかたでやってきた。だが、このやりかたでは、有事や危機など、ターニングポイントとなるクリティカルな課題は解決できない。

帝国陸海軍が戦時下に暴走したのも、霞ヶ関が高度成長達成後利権追求集団化したのも、高度成長を支えた製造業が構造変化に乗り遅れ衰退したのも、全て理由はここにある。そう考えると、製造業の進むべき道は明確だ。製品や製造現場にコダわりたいヒトは、に元気のある海外製造業企業の軍門に下ればいい。本来の「企業」にコダわりたいヒトは、時代に合わなくなった現場を過去のしがらみとともに切り離せばいい。

現実はウマくできているもので、確かに世紀に入ってからの状況を見れば、モノ作りにコダわるベテラン技術者の多くは、中国企業や韓国企業に転職しているし、生き残っている企業は、商品の生産・販売ではなく、投資やM&Aでグローバル化を図るようになっている。それができていないところは、既得権益にずぶずぶに浸りきっていて、抜けるに抜けられないところである。いっそ、そういうところには、みんな潰れていただくというのもいいではないか。


(12/07/13)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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