「ネタ」こそは全て





さすがに21世紀である。気がつけば、猫も杓子もスマホでインターネット。すっかり情報化社会になっている。しかし、普及したということは、情報環境の大衆化がもたらされたということでもある。実現したインタラクティブ社会は、かつて評論家のセンセイが、エラそうに語った夢とは大きく異なっている。確かに一人一人の個人が発信するようになったものの、その発信する情報量は極めて非対称である。

これが、かつて語られた「情報社会」の夢物語との、最大の違いである。受信している量以上に、情報を発信している個人は極めて少ない。それができるのは、対価をもらっているかどうかはさておき、プロフェッショナルなクリエイターだけである。SNS上での情報の流れを見ていればすぐにわかるが、多くの個人が発信しているのは、情報ではなくリアクションである。決して、普遍的なインパクトのあるコンテンツを発信しているわけではない。

もちろん、どんな分野でも、ローカルヒーローというのは昔からある。草野球には草野球のヒーローがいるし、各学校の野球部にも、甲子園にも、プロにもヒーローはいた。そして、それらはヒエラルヒーを構成していた。今でも、学校のクラスの芸人から吉本芸人まで、同様のヒエラルヒーが存在している。インタラクティブ・メディア上のコンテンツ発信者にも、同じようなヒエラルヒーがあるコトは容易に察せられる。

プロフェッショナルなクリエイターであっても、そのコンテンツがどこまでポピュラリティーを持つのかというのは、コミュニティーからグローバルまで、いろいろなレベルがあっていい。それが並存できるのもまた、インターネットの敷居の低さの現れである。だが、世界中の人が「技術的に」見れるというのと、世界中の人が支持するというのとは違う。そのレベルの違いと考えればいい。

世の中の全員がコンテンツクリエイターになれないからといって、インタラクティブメディアに意味がないワケではない。逆に、多くの聴衆にとっては、発信ではなく、参加できることがインタラクティブ性のポイントなのだ。さすがに減ってはきたものの、未だにインタラクティブ原理主義者の中には、この非対称性を認めようとしないヒトが多い。これは、メディアの構造の問題ではなく、それを利用する人の能力の問題であることを忘れてはいけない。

ライブでは、会場にいる聴衆のリアクションが、プレイヤーにすぐに返ってくる。これがあるから、ライブは盛り上がるし、一回限りのマジックが働く。かつては、メディア経由では、プレイヤーはリアクションを得ることができなかった。しかし、インタラクティブ・メディアの登場により、視聴者一人一人がリアクションするようになったし、そのリアクションが発信者にフィードバックされるようになった、というのが真実なのだ。

これは、上から目線を好まなくなった、時代の風潮ともフィットした。というより、下から目線で出てくるネタに、リアクションをカマすことで楽しむ、という今の若者の行動様式が、インターネットの創成期に語られたような、全ユーザーがコンテンツクリエイターになるとでもいうような、上から目線の知的な利用を否定するとともに、今あるような、まったりとした楽しみ方を求め実現したというべきであろう。

好き・嫌い、楽しい・退屈、面白い・つまらないでしか価値判断をしない人たちが、そのリアクションをフィードバックし出すとどうなるか。今、現実のものとなっているインタラクティブ社会の本質は、ここにこそある。好き・楽しい・面白いネタなら「いいね」を押す。それが、あらゆる価値を決める。全ての事象が、ネタになるかならないか、ネタになるものでは、どちらがよりウケるネタか、という価値基準で判断されるようになる。

イデオロギーや政治といった「真面目な」議論を、しかつめらしい顔をして語るのは、団塊世代以上、60代半ば以上の世代だけである。政治オタクは若者にもいるが、あくまでもマニアでありロングテールである。若い層においては、イデオロギーや政治がらみの問題も、ネタになるかどうかだけで判断される。だからこそ、政治の問題でも、それが面白くネタにできるものであれば、大いに盛り上がってしまう。政策論争はご免こうむるが、ネタになるものは大歓迎である。

前にもここで分析したが、「小泉劇場」の人気、「政権交代」の人気も、政策そのものへの支持があったわけではない。ネタとして面白いし、そこにインタラクティブに絡みたいという欲求が、ムーブメントを起した。劇場政治とは、まさにネタになる政治のことなのだ。ワールドカップが盛り上がるのも、サッカーを知らなくても、出場国の国名を知らなくても、誰でもネタにできるからだ。ウケるものは全て、このスキームに基づいている。

昨今話題になっている「反原発」も、ネタとして面白いから、人が集まるし集会が盛り上がる。そもそも、SNSで輪が広がるということ自体、ネタになっているということである。政治的な運動ではダメであり、全然面白くないし、ネタにもならない。イデオロギー的な主張を、フォローしたりリツイートしたりする人は少ない。いても、その政治団体の党員や支持者だけである。その外側に広がることはない。

しかし、みんなが参加して盛り上がるお祭りになるものであれば、話は変わってくる。ネタとして面白いものなら、どんどん輪が広がる。そもそも何らかの主張があるワケではない。「オモシロ組vs.つまらな組」という構図になれば、みんな本能的に「オモシロ組」に入りたがる。「無党派層」の本質は、ここにある。主義主張ではないのだ。何よりもネタとしてウケるかどうかが、動員や共感にはかかせない時代なのだ。

石原都知事も「太陽の季節」の昔から、センセーショナルなネタを作る天才である。さすが、ヒット作を連発した小説家としての面目躍如である。尖閣列島の買収プランも、イデオロギー的にとらえては意味がなく、ネタの提供として捉えれば、その意味がよくわかる。ネタとしては、コレは非常に面白い。政治的立場やイデオロギー的な主張と関係なく、そんなのをぶっ飛ばしてしまうぐらい面白い。そこが人気の秘密である。

ポピュリズムというけれど、これは極めて民主的である。ネタがウケるかウケないか、即座にリアクションが返ってくる。その価値基準を好むかどうかも自由だが、一部の上から目線の人たちは、自分がネタを提供したり、ウケをとるのが苦手というだけで、偉そうにネタを出せるヒト、ウケを取れるヒトを批判しているだけである。単なるヒガみ、ないものねだり以外の何者でもない。

新聞が苦境に陥っているのも、新聞の拠って立つ立脚点が、ネタから最も遠いところにあるからだ。新聞がいかに正義ぶってエラそうに威張っても、全くネタにはならない。もっとも、そういうジャーナリズムは茶化す対象にできるし、ソレをネタにする芸人はいるのだが。その一方で、テレビはネタの提供主体として機能しているので、ジャーナリズムが不要になっても生き残ることができた。

これはもはや、現実である。それが気に入ろうが気に入るまいが、支持しようが反対しようが、現実は現実であり、誰も棹を挿すことはできない。しかし、イデオロギー的なヒト、ジャーナリズム的なヒトは、必死に棹を挿そうとしている。まあ、これは構造的に仕方ないのかもしれないが、ますます現実から遊離し、嘲笑の対象となるだけである。「バカは死んでも治らない」と昔から言うだけに、こりゃもう無理ですな。笑いながら、死に水をとってあげましょ。


(12/07/20)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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