求めぬことは善きこと哉





昨今、廃墟や廃道がブームになっているが、日本のような温帯で多雨な気候のところでは、人間の手が入らなくなると、10年か20年で、元の森林に戻ってしまう。自然林になるのがエントロピー極大の状態であり、道路だろうと宅地だろうと、人間が使える状態を維持するためには、常に人間のエネルギーでネグエントロピーを注入し、状態を保つ努力をしなくてはならない。

すなわち、人間が使いやすい環境を維持するということは、それだけ自然の摂理に対抗し、常に自然環境を破壊し続けることと同義である。人間の存在自体が、自然環境にとっては悪なのだ。しかし、廃道が人間の生涯より短い期間で自然に還るように、自然の復元力はかなり強い。それだけに、環境破壊は仕方ないとしても、それを最低限にとどめることが、自然と共生するためには必要である。

人間は元々、無制限に資源を浪費し、必要以上に環境を破壊し続けてきたわけではない。悪の元凶たる西欧キリスト教社会においても、少なくとも中世までは、手に入るもので足るを知る道徳心を持っていた。人間がおかしくなってしまったのは、基本的には産業革命以降、どんなに前倒しに見積もっても大航海時代以降のことである。

自然に対し必要以上の負荷をかけるようになったのは、高々何百年のできごとでしかない。7桁のオーダーを持つ人類の歴史からすれば、それは例外的な一瞬である。人類の歴史においては、環境への負荷は人類の「業」ではあるが、ウマく自然と折り合いをつけてきていた。必要以上に経済の成長や拡大を求めるようになってから、人類はおかしくなってきたのだ。

確かに、喰うに困って、餓死者が続出していたような時代は、決して人間にとって幸せとはいえない。その不足分を埋める意味での、生産の拡大や成長を求めることは、間違いとはいえない。しかし、必要ないレベルまで追い求めて、有限な地球環境にダメージを与えるだけでなく、結果、成長しても成長しても満足が得られず、更なる成長を追い求める悪循環に入るのは、本末転倒である。

昨今問題になっているが、日本人の誰もが、トロの寿司やうな重を好きなだけ食べられるような環境をもとめるから、マグロやうなぎをワシントン条約の対象にしようという議論が生まれてくる。誰もが食べられるようにして絶滅させてしまうのと、極めて高嶺の華の高級品で容易に手が出ないものの、いつまでも食べられる可能性を担保しておくのと、どっちが賢いか。

これが、人類と自然との折り合いである。経済成長至上主義の発想は、短期的な満足だけを最適化し、中長期的な視点からの最適化という視点を持ちえない。あくなき成長を追い求めるということは、地球上の資源やエネルギーの新たな蓄積が有限である以上、マグロやうなぎに、ワシントン条約を呼び込んでしまうアホと同じである。将来の10より今日の1の方を高く評価する発想ではいけない。

これについては若干説明がいるだろう。地球は閉じた系ではなく、平衡状態にある開いた系である。太陽エネルギーなど、系外からのエネルギーの流入が、エントロピーの増大を防いでいる。だから、再生可能エネルギーとはいっても、流入してくるエネルギー以上に消費してしまったのでは、系の平衡は崩れてエントロピーは増大し、破滅に向かうことになる。太陽エネルギーといっても、無限ではない。

しかし人間には知恵がある。知恵は、毒にも薬にもなる。成長のための技術の開発にも使えるが、心の満足を知り成長なき幸せを追い求めるためにも使える。全ての悪の根源は「欲」にある。環境を破壊する元凶は、人間の心の中にある「欲」である。環境問題を解決するためには、人間が「欲」を捨て現状に満足することが、何よりも有効である。そのためにこそ、人類の知恵を結集すべきなのだ。

「欲」が道を誤らせることは、日本の官僚たちの所作を見ていればよくわかる。元来、官僚が果たすべき社会的役割は、世の中のために尽くしたいという公徳心にあふれた人たちが、ノーギャラでもボランティアでやるべきことである。それでこそ、無私にして公平な、まさしく世の中のために役立つ仕事ができる。ギャラをもらわなくても喰うに困らない人たちがやるなら、官僚機構もきちんと機能するだろう。

しかし、「公共」システムとは、もともと、こういう金の臭いとは違うモチベーションで動くモノだからこそ、その隙間に私利私欲の塊を忍び込ませやすい。公共心を隠れ蓑に、自分の「欲」を満たし、金を稼ぎたいという人たちにとっては、こんなにオイシイ仕掛はない。かくして、公共事業はバラマキ利権と自らの天下りの財源となってしまった。欲を持ってはいけないし、欲を持っている人間に、権力を与えてはいけないのだ。

エコとは、現状に満足し、足るを知ることである。上を見ればキリがない。人間に生まれてしまったこと自体が「業」なのだから、それをあるがまま受け入れ、今の自分の置かれている状況に、積極的に甘んじることが重要なのだ。それを守れば、必ずや自然との折り合いをつけることができる。成長や拡大を求める邪な欲望から解脱することこそ、エコロジーの真髄である。欲の塊のような市民運動家たちにはお引取り願い、一人一人が安らいだ心を持ってこそ、環境問題は解決する。


(12/08/03)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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