個人と集団と





統計学や確率論は、ある意味、全ての科学の基礎である。自然科学においては、実験の結果からある判断を導くためには、統計的処理が必須のプロセスである。物理や化学においてはもちろんのこと、たとえば医学においても、その新しい治療法や薬が有効かどうかを判断するためには、それまでのやりかたをとった場合と比べて、統計的に有意な差があるかどうかがポイントになる。まあ、このあたりについては、門外漢でもイメージしやすいだろう。

社会科学においても、定量的な数値を扱うことが多い、経済学や経営学では古くから重要な役割を果たしていた。筆者のように、30年前に「理系の経営学」のコースを進んだものにとっては、その時代から統計学や確率論はメインディッシュの一つであった。もっとも、最終的には経営史などというものを選んでしまったのだが、それでも統計は非常に興味を持っている。特に、個々バラバラでは現れない要素が、集団になると現れてくるところにはゾクゾクする。

ミクロではわからないが、マクロになってはじめて見えてくる傾向を捉まえられるという意味では、人間集団の行動を対象としている、社会学や心理学といった分野でも、定量調査をベースに統計的に処理して結論を導き出す方法論が一般化している。個々の日本人には、生真面目な人もいい加減な人もいるが、日本人という集団としては、生真面目な人が有意に多ければ、日本人は生真面目だ、といえるわけである。

さらに最近では、コンピュータの発達と低価格化により、純粋な人文系の学問でも、統計解析が活用されるようになってきた。作者が不明の古典書物でも、用語や言い回しの特徴をコンピュータで統計的に処理することにより、だれそれの作であるという蓋然性を、数値的に示すことができ、作者を考証することが可能になった。ある意味、データがあるところ、必ず統計解析が活躍する余地はある。

従って、情報化が進めば進むほど、その範囲は拡大する。昨今では、取引をはじめとしてあらゆるモノがオンライン処理されるようになったため、そのデータだけは膨大に蓄積されるようになった。このところ「ビッグデータ」がバズワードになっているが、確かに統計解析可能なデータは膨大にある。とはいえ、統計解析の意味を知らないひとが、いかにデータだけぶん回しても何も出てこない。

ところが、日本人には、統計学や確率論がからきしわかっていない人が多い。もちろん、類まれなセンスを持っている人もたくさんいるのだが、全体としてみると、過半数以上が統計オンチというか、統計的センスに欠けた人たちである。まさに、統計的に見て、「マクロ集団としての日本人は、統計に弱い」と有意にいえる状況なのだ。どうも、その一番のポイントとなるのが、ミクロとマクロ、人間でいえば、個人の特徴と集団の特徴との関係である。

こと日本人の場合、この統計の一番の醍醐味である、「集団になると、個人のときにはわからなかった傾向値が見えてくる」という点を理解できていない人が多い。それだけでなく、このミクロとマクロの違いがわからないことから、これを混同しがちになる傾向も強い。統計は、個々人は見ていない。最低限それだけわかっていればいいのだが、日本人、ことに年齢の高い日本人は、集団へ同化する傾向が強いせいか、区別ができないようだ。

その際たる例が、前にも触れたことがあるが、血液型と性格の関係であろう。人種や民族、部族といった人間集団ごとに、血液型の分布は異なっている。アメリカ先住民の「全部B型」というのが最右翼だろうが、とにかく、いろいろな分布がある。それは、たとえば企業であっても、学校であっても、組織であれば同じである。その一方で、民族性や社風といった、組織ごとにそれぞれユニークな特徴を持っている。

である以上、ある集団の特徴と、その集団の血液型の分布とに、有意な相関が見出されることも有り得る。実際、職人肌の芸術的気風が強い集団においては、B型が有意に多いという傾向は、容易に導き出せる。しかし、これはあくまでも結果であり、B型が多い集団だから職人肌だ、芸術的だということにはならないし、ましてや、B型の個人が、職人肌の芸術的気風が強いなどとはとてもいえない。

この辺をウマく混同させたのが、血液型占いであろう。とはいえ、一個人では無意味だが、30人ぐらいの集団になれば、モノによっては傾向値を読み取れるので、学校のクラスとか、部活動のチームとか、そういうレベルでは、血液型占いができないとは言い切れない。高校生レベルなら、指導さえ間違えなければ、調査・分析を行い実証することもできるし、そういう教育を行なえば、日本人の統計センスももう少し上るかもしれない。

熱力学も似たところがあって、個々の分子を見ていても、気体としての物理的特性は全くわからない。が、全体として示す特性は、まぎれもなく存在している。筆者は熱力学も好きだったが、やはり日本ではあまり人気がない。どうもこれは、集団全体に押し付けた責任を、個人レベルでは負いたくないという、無責任な日本人の特性に由来しているのではないだろうか。責任感の強い人もいるにはいるが、集団全体として無責任になってしまうということ自体、統計的な傾向値のなせるワザなのだが。


(12/08/10)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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