大衆文化と階級文化





およそ19世紀までは世界的に見て、美術や音楽などの芸術、人文系・理科系を問わず学問は、貴族や資産家たちが、趣味と社会的責任の両面を合わせて、自らの浄財を投げ打って、その発展を支えてきた。そういう環境の中で育ってきた、パトロン層の次男、三男といった、直接跡を継がない人たちが、高等遊民となり、自ら芸術家や学者となるケースも多かった。

特に江戸時代の日本では、家制度の特性とも相まってその傾向が強く、江戸文化の華を支えた、蔦屋重三郎の周辺で活躍した、狂歌師、俳諧文学者、浮世絵師などには、そういう人たちが多い。というより、そういう高等遊民のサロン的活動の中から、「洒落」を形にしたコンテンツが生まれ、それが浮世絵や黄表紙本等の形で、一般大衆をターゲットとしたメディア商品として流通していった。

この構造は、とても示唆に富んでいる。コンテンツを創る側は、確かに人々に「ウケる」ことは重視し、当意即妙なネタを盛りこんで創作しているのは間違いないが、それを生活の糧にすることを第一に考えたり、あわよくばそれで一旗上げてなりあがろうな土とは、思っていなかった。ある意味、純粋な表現欲が創作のモチベーションなのである。これは、その後の文化のあり方とは大きく異なる。

大衆文化が完全に商売になり、創作までもがビジネスベースになってしまった今から考えると、この状況はベースとなるモノが大きく異なる。商業芸術と呼ばれるように、現代では音楽にしろ映画にしろ、それがもたらすであろう収益を想定し、マーケティングに基づいて作られている。アーティストのメンタリティーにおいても、儲からなくてもいいから自分のために創作するというヒトではなく、マーケティング的に「当てる」ことのできるヒトが「プロ」と呼ばれる。

それはそれで、結果として多くの人が面白いと思い、わざわざお金を支払ってまで楽しんでもらえるのんだら、その作品はそれなりに「いい作品」ということができるだろう。しかし、特定の時代の特定のターゲットに寄り過ぎている。これらの作品が、20年、30年ののち、作られたときと同じようなインパクトや感動を受け手に与えられるかといえば、はなはだ心細いモノがある。

一部の賞狙いの作品を除くと、ほとんどのテレビ番組が、その時代、その瞬間の視聴者にオプティマイズした、「ライブ」コンテンツとして作られてきた。リアルタイムでは、とても面白く楽しいし、感動も呼ぶだろう。しかし、そのインパクトが大きければ大きいほど、すぐに賞味期限が来てしまう。それは、ライブコンテンツの宿命である。

27時間テレビや24時間テレビ、はたまた駅伝中継などは、感動やワクワク感にあふれるテレビ番組だが、それを1週間後に再放送することを考えてほしい。商業芸術としての成功は、ある面、このライブコンテンツとしてのインパクトに基づいている。細く長くウケるのではなく、そのウケの総量を、一瞬に凝縮するからこそ、大ヒットするというのが、情報化社会となった現代の商業芸術の構造なのだ。

後世に残る「時代の文化」を生むためには、全ての作品がこのような現代的商業芸術になってはいけない。商業芸術は大切だし、どんどん面白いコンテンツを量産し、今という瞬間を幸せにしてほしいとおもうのだが、それだけでは後世の人たちに申し訳が立たない。時代を超えて生き残る力を持っているのは、風流な人たちが生み出す、採算と関係ない風流なコンテンツである。

すなわち、歴史を超えて文化たり得るだけでなく、それ自体も幅広い層にウケるコンテンツを創作するための前提は、江戸時代の戯作者のように、「文化人」が働かなくても高等遊民として生きていけるような、社会の階層性にある。幸か不幸か、日本社会は産業社会から情報社会に進化するとともに、階層化が進むだけでなく、階層の固定化の進展が階級化も生み出している。社会の階層化が進行は、歴史に残る文化を生み出すためには好機である。

そのような階層化を社会的に正当化するためには、シャカリキに金を儲けることが善なのではなく、金を持っているヒトが、文化を生み出すために金を使うことが善となるような、有産階級の社会的責任を重視する社会を実現するなくてはならない。蔦重の周辺に集まった風流人が世界に誇る江戸文化を生み出し、ジャポニズムとして世界を席巻したように、21世紀の日本は、高等遊民の風流人を大事にし、そこから新たな文化を生み出せるような土壌を築く必要がある。


(12/08/24)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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