勤勉のくびき





日本人、日本社会の間に根強くはびこっているのが、量を価値基準とする発想である。特に、「頑張った方がエラい」とか「より長時間仕事した方が良い」とか、人間を評価する際にこの量的価値基準を導入しがちである。しかし、これは高度成長期的、産業社会的な発想である。ただ、大きければいい、多ければいいというだけで、質的視点が欠如している。これでは、付加価値の高い商品やサービスを生み出せるワケがない。

たしかに、高度成長期に於ては適切なイデオローグだったかもしれない。しかし、21世紀になり、安定成長の情報社会となった今でも、日本人の多くが、この発想から抜け出せていない。空気が読めないヤツをKYと呼ぶことが、ちょっと前にブームになったが、まさに価値基準という意味に於ては、空気が読めていないヒトが多すぎる。日本社会が、根性論・精神論しか振りかざせないために、どれだけ歴史的失敗を繰り返したのだろうか。

スポーツもそうだ。いつも言っているが、サポーターが「がんばれ」と声援を送るのはまだしも、選手は「がんばります」というべきではない。「メダルを取ります」とか「対戦相手を打破します」とか、具体的な目標をいうべきである。最近は、そういうコメントを出す若手選手も増えてきたのは、喜ばしい限りである。しかし、まだまだ「がんばります」から抜け出られないヒトが多い。これは、目標がないことの裏返しでもある。

追いつき追い越せの時代なら、先人を模倣し、同じことができるようになることが目標となる。その時代ならば、ひたすら模倣を「がんばる」ことで、追いつくことができるかもしれない。しかし、それでは自立的な目標設定は不可能である。自分で自分のペースを設定しなくてはいけないトップランナーは、「がんばる」だけでは勤まらない。戦略的に目標を立て、それを実現することが求められる。これができない日本人のジレンマを、「勤勉のくびき」 と呼ぼう。

豊かな安定成長の時代になり、「人に差がないことが良い」時代は終わった。貧しく何もない状況では、確かに「がんばったり」「努力したり」しなくては、その日の喰いモノにもありつけない。だが、この状況では、何も持っていないことにおいては、皆平等であった。だが、社会インフラが整い、社会的な資本の蓄積が進んだ「豊かな社会」では、状況は異なってくる。がんばっても、努力してもどうしようもない、越えられない段差のほうが多くなるのだ。

豊かな社会になることと、こういう差異が大きくなることとは、表裏一体の関係にある。生産力によって得られるユートピアとは、マルクスなど19世紀の社会主義者が夢想したような、豊かで「平等」な社会ではない。そういう豊かな社会では、最も貧しいヒトでも、貧しい社会の豊かなヒトよりも余裕のある生活ができることは確かだが、差異は埋められるどころか、拡大せざるを得ない。しかし、圧倒的な底上げは実現したのだから、上を見るより、今の自分の幸せを客観的に評価する方が大事なのだ。

富という意味でもそうだが、豊かな社会は、あらゆる面で人と人の差異を拡大する。そうである以上、一つの価値観軸上に全ての人を並べ、その差異を「上・下」「善・悪」といった評価につなげるのではなく、ひとりひとりの違いを大事にして、それぞれの持ち味を活かせる社会を目指すべきである。もちろん、それによって得られる収入の多寡はあるかもしれない。しかし、そのヒトに与えられる名誉は同じでなくてはならない。その違いを、ひがんだりねたんだりしてはいけない。これこそダイバシティー社会の真髄である。

この「勤勉のくびき」と、「寄らば大樹の陰」「画一性志向」といった日本社会にはびこる悪癖とは、すべて根っこが同じである。プロセスでがんばってさえいれば、結果が出なくても、同じ分け前にありつけることを指向する人たち。がんばりさえすれば何とかなる、努力さえすれば何とかなる、汗さえかけば何とかなる。そういう考えかたは、成果を問わない悪平等である。長年がんばってくれた結果に報いるという、年功制も同じである。この悪平等を支えているのが、「甘え・無責任」指向である。

大事なのは、機会の平等と結果責任だ。それはまた、互いの違いや差異を認めあうことでもある。互いに違いを認めれば、できるヒトとできないヒト、持てるヒトと持たざるヒトの間で、互いに対するヒガミやネタミを持たずにすむ。そうなれば、差別やイジメが起こる可能性も減少する。それは、差別やイジメ、特に陰湿なそれは、目クソ鼻クソの類の、最下位争いの中で生まれるヒガミやネタミが原因となっているからだ。「金持ち喧嘩せず」で、心もフトコロも豊かなヒトには、差別意識は生まれない。

全て、努力すればなんとかなる、頑張れば報われる、という「勤勉のくびき」がもたらした癌である。日本の製造業の不振も、原因はそこにある。構造変化を認めず、ひたすらがんばれば何とかなるという発想は、神風さえ吹けば何とかなるという考えかたと同じである。生産性向上を何に生かすか、という戦略には二つの方向性がある。生産性が向上すれば、同じ時間で生産量を拡大できるだけでなく、同じ生産量をより短時間で実現することも可能になる。このどちらを選ぶかが、「戦略」である。

前者は、質より量の段階での社会にこそふさわしい。とにかく数をこなすことで、右肩上がりを目指す。しかし、市場規模の拡大が望めないレベルにまで経済が成長すると、もはや数を増やしても意味がない。必要にして充分な供給があれば、それ以上は無駄である。それなら、後者のように最も希少な資源である時間を無駄に使うことなく、捻出した時間を、他のことに振り向けられるようにすることのほうが、余程有効だ。この発想の転換ができないからこそ、日本企業は不振にあえいでいる。

まあ正直言ってしまえば、別におせっかいにとやかく言う必要はない。井の中の蛙でいたいヒトは、悪平等の無責任体制に浸っていれば、別にいいのだ。やりたい人が、そういう連中とは関係なく、勝手にやれればいいだけで。やりたい人には、やらせてやってくれ。あなた方の利権に手を付けようとは思わないので、足を引っ張らなければそれでいいのだ。悪平等の仲間にしてほしくないヒトまで、悪平等の対象を広げなくてもいいではないか。

十年一日のごとく、同じやりかたをこつこつ地道に繰り返すことしかできない蟻は、環境の変化に対応できず滅びてしまう。一気に飛躍して状況から抜け出ることが可能なキリギリスは、生き残ることができる。パラダイムシフトの時代の「蟻とキリギリス」は、そういう童話だろう。うたかたの幸せに浸っていたいひとは、いつの間にかゆで蛙になっているかもしれない。しかし、それはそれで自業自得というものだ。


(12/08/31)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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