ストレス耐性





この10年ほど、どんな会社でも組織でも、メンヘルや新型ウツの問題から自由でいられるところはない。その理由として、「ストレス耐性の低さ」があげられることが多いが、日本人のストレス耐性の低さは、何も今に始まったものではない。江戸時代以降の日本の歴史を見ても、多くの庶民にとっては、責任をとってリスク含みの判断をする機会がなかった。そもそも責任のストレスにさらされることなく生きてきたのが、日本の大衆なのだ。

それが、グローバル化や情報化の進展とともに、ビジネスをはじめとして、自己責任での判断を問われる場面が多くなった。それが、トップエリートだけでなく、いろいろなレベル、いろいろな局面で問われるようになってきた。長らく責任のストレスにさらされていないまま、何代も過ごしてきた日本の庶民である。ストレス耐性も、当然退化していただろう。それが、高度成長期までのように、寄らば大樹の陰でゴマかせなくなってきただけのことである。

歴史の進歩というのは、既存のルールを破るところから生まれてくる。自分で責任が取れるなら、ルールは破るためにある。ルールとは、既得権を守るとともに、自分の責任で行動しなくてすむ環境を作るためにある。規定のやりかたで、既定の路線を進む分には、なにも責任を取る必要はない。無責任なヒトには、こんなすばらしい環境はない。日本人がルールを守るのは、責任を取るのがイヤだからなのだ。

先日、とある大手電機メーカーをすでに退職された技術者の方と話をする機会があった。それなりに見識も経験もお持ちで、日本のメーカーの問題点もどうすべきかも、きちんと論じられる方だったのだが、逆に聞いてみたいことがあったので尋ねてみた。それは、それだけ問題意識を持っていたのに、なぜ自分がそれを実行しなかったのか、ということだ。しかし、そこで返ってきた答えは、予期せぬものだった。

「リーダーシップをとっているヒトが、指示してくれればそうやった」というのが答えであった。彼が勤めていた会社は、メーカーの中でもラインの命令が強い会社として知られていたところなのだが、現場監督ではなく、ブレークスルーを創り出すことが仕事であるはずの技術者が、指示待ちの発想をしたのでは、追いつき追い越したあとの商品企画ができないことは明白である。要は、腹をくくって責任ある行動ができないのだ。

1950年代までの日本社会には、まだ「階級」がうっすらと残っていた。これが一掃されるのは、高度成長の恩恵が日本全国に広がり出す、東京オリンピック前後のことである。違う社会階層のヒトが、同じ車輛に乗り合わせないために導入されていた「等級制」が廃止され、冷房やリクライニングシートなど、単にアコモデーションの違いでしかないグリーン車が国鉄に導入されたのが昭和44年というのも、象徴的な出来事である。

さてこの時代の「階級」とは、単に年収の問題ではない。有産者か無産者かという違いである。有産者とは、その家に、受け継ぐべき事業や家督のある人たちである。こういう層にとっては、自分という個人の意思以上に、家の財産を守り拡大する役割が求められていた。逆に受け継ぐべきものがない無産者であっても、一山当てて、キャッシュフローだけは潤沢な「成金」となる可能性も充分にあった。個人ベースでも、B/SとP/Lが違っていた時代なのだ。

こういう時代においては、有産者と無産者では、子供の教育というか育てかたが違っていた。受け継ぐべきものがある家に生まれた者は、庶民とは心がけが違っていた。自分を犠牲にしても家の財産を守ることが、当代の当主には求められる。そのためには、「腹をくくって責任を取る」姿勢を取れることが必要になる。19世紀はもちろん、昭和に入ってからも、キチンとした家に育った人間には、「自立・自己責任」のマインドが教育されていた。

日本の世の中は、かなりフラットな大衆社会化していたものの、1950年代ぐらいまでなら、当時親になっていた世代は、あきらかに有産者と無産者でちがう人間教育を受けていた。有産者的な、「自立・自己責任」で行動し、腹をくくってリスクに立ち向かえる人たちがいる一方で、無産者的な、「甘え・無責任」で行動し、寄らば大樹の陰で責任を取らない人たちがいた。それだけに、無産者出身で偏差値だけで成り上った秀才は、テクノクラートとして重用されることはあっても、トップのリーダーになれる率は低かった。

学ぶべき教訓はここにある。組織である以上、リーダーシップが求められるポジションもあれば、与えられたことを手際よくこなすことが求められるポジションもある。各々のポジションと、自分に染みついた生きかたとがマッチングしていれば、何も問題は起こらない。秀才であることは、リーダーシップを発揮するエリートの条件ではない。逆に、リーダーシップには不適格なことの方が多い。

リーダーは、学校の成績で選ぶものではない。自ら腹をくくって責任ある行動が出来る、「育ち」で選ぶべきなのだ。猫も杓子もメンヘルで新型ウツという状況は、もはや日本の組織に求められている課題は、秀才が机上でハンドリングしようとしても、解決できないものになっていることの裏返しである。自己責任でわが道を進める人材に、思い切って組織の舵取りを任せられるか。日本社会が、今目前にある岐路を乗り切れるかどうかのカギがここにある。


(12/09/07)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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