組織のシナジー





日本の製造業の経営が暗礁に乗り上げている裏には、モノを「作る」ことはできても、「創る」ことができない構造的な問題がある。それは、単なる技術や設備の問題ではない。それらは、充分蓄積されている。そういうハード的側面でなく、それを活用するための、経営や組織・人事など、企業のソフト的側面が不足し、劣っているのだ。これは、追いつき追い越すことだけに最適化してきた経営がもたらした不幸である。

組織構造一つ取っても、「作る」ために最適化したモデルと、「創る」ために最適化したモデルは異なる。「作る」ためには、コスト面でもスピード面でも、スケールメリットがモノをいう。単に同じものを作るだけなら、より大きな組織で、より大規模に生産したほうが、より効率化し優位に立てる。今までの日本の製造業の経営は、このスキームが基本になっていた。しかし、これは「創る」組織に於ては成り立たない。いや、創ることにおいては、組織である必要すらないのだ。

工業製品の生産だからわかりにくいが、こういう実例は日本でもいくらでも見ることができる。たとえば、大型ビルの建設や都市開発では、比較的小さな組織である設計事務所がプランニングを行い、実際の建設作業はゼネコンなどの大きな組織を持つ建設会社が行なうこともよくある。全体のプロジェクトの規模が大きいので、エクゼキューションを効率的に行なうには、規模の論理が必要になる。しかし、プランニングにおいては、規模は必ずしも必要ではない。

それどころか、プランニングなどクリエイティビティーが求められるフェーズでは、多人数の合議制にすればするほど、鋭い切り口が薄れ、魅力のないあたりまえのモノしか生み出せなくなってしまう。いつも言っているように、組織はクリエイティブになれないのだ。100人の力をあわせても、1000人の力をあわせても、一人の天才の力にはかなわない。それが、モノ「創り」の世界なのだ。そして、一人の天才をかがやかす力は、組織にはないものである。

もちろん、どこまでいってもエクゼキューションには数の力が必要である。だから、「創る」ヒトと「作る」組織の連携が必要になる。デジタル機器では、数人のベンチャー企業が商品企画やデザインを行い、実際の商品化と製作は巨大なEMS企業が行なうことが常態となってきた。しかし、この両フェーズは、特化する方向が異なる。このため、この両者を一つの組織で行なうことには無理がある。モノ「創り」とモノ「作り」の垂直統合には、シナジーはありえない。

大きな組織は、官庁に代表されるように、昔から個人の顔が見えず、組織の中の人間は、クリエイティビティーを発揮できなかった。しかし、かつては大きな集団でも、それなりに創造性を発揮することができた事例もなかったわけではない。それは、日本企業が売り上げやシェアを重視し、効率を重視しなかったことの、「ケガの功名」である。組織としてのスケールメリットやシナジーを極限まで追求しなくても、あるレベルの数字さえ上っていれば、「遊び」の部分が大きかった。

このように、付加価値の創造の部分は、組織構造の中にシステマティックにビルトインされていたワケではない。それどころか、組織のミッションとは関係のない、属人的な余技の部分によって賄われていた。利益よりも売り上げを重視し、ステークホルダーの利益よりも、社員の利益を優先するという弱いガバナンスが、それを許し、結果的に付加価値を生み出していたのだ。組織的な生産は、「より安く・より多く」を越えるものではなかった。

90年代以降の経営のグローバル化の中で、日本企業は利益率の低さからもわかるように管理できない「遊び」の部分が大きかったゆえに、構造変化を行なうことなく、その部分のコストカットにより経営体質の強化を図るという戦略をとってきた。これでは、本来これからの経営で必要とされる「付加価値生産」の源を切り捨てるとともに、すでに耐用年数を過ぎたビジネスモデルであるはずの「より安く・より多く」を、さらに突き詰めてゆくことしかなかった。

本来やるべきことは、組織構造外に置かれていた「付加価値生産」のメカニズムを、コア・コンピタンスとして取り込むとともに、「より安く・より多く」の部分は、一気に新興国に任せてしまう戦略であったはずだ。日本の製造業が取った戦略は、真逆のものである。少なくとも、この間違った戦略を10年間取り続けた結果、多くのメーカーは再起不可能なダメージを受けてしまった。日本の製造業が強かったのは、日本自身が「新興国」だった時代の物語である。

もはや日本においては、大企業、大組織に期待できるものはあまりない。期待すべきは、個人レベルで、より自由な発想から新しいスキームを思いつく人たちだ。考えてみれば、日本企業のイノベーションの源は、個人レベルのアイディアにあった。今や、それを実現するのに、企業の内部にいる必要はない。海外のグローバル企業と組んでも、アイディアは実現できる。それが、これからのモデルであろう。寿命の尽きた大企業を延命するより、新しいスキームにかけるべき時代なのだ。


(12/09/14)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる