リーダーなき組織





製造業でもサービス業でも、高付加価値化したビジネスにおいては、プランニング・プロデュースのフェーズと、エクゼキューションのフェーズとがある。欧米の製造業でいえば、プランニング・プロデュースは譲れないコア・コンピタンスである一方、エクゼキューションはEMSなどアウトソーシングしてコスト削減を図るべき領域である。ブランドカンパニーにおいて求められるリーダーシップは、あくまでもプランニング・プロデュースのフェーズに対するものである。

リーダーに求められるのは、最高のアイディアを出してまとめることと、それを的確なディレクションすること、そして組織のムード作りである。自分の役割がプランニング・プロデュースのフェーズである以上、絶対にエクゼキューションに手を出してはいけない。エクゼキューションを行なう側が、受け身になって自らの強みを育てなくなるだけでなく、コスト削減に対する意思決定が行なえなくなってしまうからだ。この両フェーズは、立ち位置が違うことを忘れてはならない。

ここが、アメリカと日本の企業の違いである。アメリカの企業は、この両フェーズをきちんと峻別しているが、日本の企業では、そもそもフェーズの観念自体が曖昧なところが多い。この原因は、そもそも両国において、企業の成り立ちが異なるところに求められる。個人からスタートし、大きくなって組織化した企業が多いアメリカ。最初から、会社形態で組織としてスタートした企業が多い日本。この歴史的経緯から、リーダーの位置付け自体が違うのだ。

もちろん日本にも、江戸時代の大商家のように、オーナーの人格と組織のアイデンティティーを一致させ、オーナーが無限責任を負うシステムがあった、このような組織では、オーナーは真の意味でのリーダーシップはとることができた。しかし、最初から組織が組織として存在していると、組織の安定的維持発展自体が、組織の存在目的になってしまう。目的合理的に行動できないし、組織そのものもそういう風にはできていないのだ。日本の大組織が、決定できない理由もそこにある。

かつてバブル期には、世界的に「日本的経営」が賞賛されたことがある。そういう意味でも、経営学なんて刹那的な実学で、学問ではないことがよくわかる。そういう流れの中で指摘された日本的経営の長所の一つに、「中長期を見据えた経営」というものがあった。確かに、当期利益の極大化を最大の目的とする欧米企業とは違い、投資計画にしろ、経営計画にしろ、長期的な最適化を図ることが多かったことは確かだ。

しかし、同じように見える経営戦略でも、その中身には二種類あったことを見逃してはいけない。一つは、江戸時代の商家の伝統をひく、オーナー経営の企業の戦略である。日本企業には珍しく、オーナー企業の場合は、オーナーが腹をくくって全責任を取る意思さえ示せば、相当に大胆な戦略を取ることも可能である。その分、リスクがあるが成功すれば大きい新規投資や、投資効率は悪いが文化的に意義のある事業など、中長期的なメリットを重視した投資も行ないやすい。

もう一つは、サラリーマン社長しかいない、大組織企業の戦略である。ここでは、誰も意思決定しない。全てが先送りされ、誰も責任を取らない。欧米企業なら当たり前の、当期利益の最大化といった短期的最適化さえ意思決定できない。結果、中長期計画をバラ色に描いて先送りし、何もしなかったことを正当化するだけである。しかし、経済自体が右肩上がりだと、外見的にこの両者の区別がつかない。そしてバブル期までの日本経済は、程度の差はあるものの、右肩上がりが基調であった。

20世紀後半の日本においては、サラリーマン組織型の企業こそ「正しく」、オーナー形の企業は「悪」であるという、ある種のリベラリズムをベースにした、「赤い」思想がいわれもなく流布していた。しかし、こと企業における戦略的意思決定という点においては、問題は逆である。オーナー企業なら意思決定ができるが、サラリーマン組織では意思決定ができないのだ。こういう歪んだ思想が広まったのも、「赤」をよしとする「40年体制」の悪しき産物である。

もう、こういう過去の悪しき遺産に囚われる必要はない。サラリーマン組織型の企業など、日本にはもう必要ない。もちろん、それの雛形になった官僚組織も同じく必要ない。自ら創業したベンチャー企業なら、自分がオーナーでありファウンダーなのは自明である。別にベンチャーなどと気取る必要はない。自営業であれば、等しく、自分がオーナーでありファウンダーなのだ。全てを決められる一方、全ての責任を取らなくてはいけない。

日本における企業家の伝統は、江戸時代の商家のスタイルにあり、明治以降「追いつき追い越せ」の手段として導入された、官僚制に範を得たサラリーマン組織型の企業にあるのではない。無責任な組織を捨てて、自ら責任を取って創業する。これは、新しいスタイルでもないし、米国の先端ビジネスの模倣でもない。実は、江戸時代には、自ら責任を取る人たちがいたのである。そう、これは日本古来の企業組織のあり方に回帰するだけのことなのだ。


(12/09/28)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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