暖簾に腕押し





その組織の中に責任主体となる人がいて、その人が腹をくくって決断した行動であれば、責任のありかは明確である。そういう人を、リーダーという。これは世界の、いや人類の常識であるが、どうやら地球上にも、唯一この常識が通じない暗黒国家があるらしい。その国家こそ、無責任の権化、日本である。この国では、そもそも誰も決断しないし、恐ろしいかな、組織としての決定も誰が決めたかを曖昧にするようなメカニズムが働いている。

社民党とか共産党とか「革新」と呼ばれたヒトたちは、何かにつけて「政府」が悪い、「大企業」が悪いと、責任をそういった大組織に押し付けるのがお好きである。しかし、そういう日本の大組織は、ここでもすでに何度も分析したように、そもそも基本的に無責任集団であり、何も意思決定できない。無責任集団に、「オマエが悪い」といって責任を押し付けても、暖簾に腕押し・糠に釘、全く無意味である。

日本においては、政府の「政策」も、企業の「戦略」も、誰かが責任を持って決めたものではなく、責任を曖昧にしたまま、後追いで決めたものが多い。だからこそ、危機対応の毅然とした舵取りができないし、それが今の日本の最大の問題点ともなっている。そういう意味では、「革新」政党というのは、無責任という既得権の輪に入り損ねた人達が、「俺達も無責任の輪に入れてくれ」と利権を要求するものでしかないことがよくわかる。

組織的な決定を行なわず、既成事実の積み上げで、なし崩しに実施してしまうというのが、日本的組織運営である。責任ある地位にあるリーダーが決断しなくても、一旦始めてウマくいっているものをヤメる必要はない、という論理をベースに、始めたもの勝ちで進めてしまう。本社からのガバナンスの効きにくい海外拠点などでは、いちいちお伺いを立てて決済を受けるよりも、こういうやりかたで勝手に進める方がやりやすい。

太平洋戦争に至るプロセスなど、その最たるものだろう。中国での戦争状態への突入については、一般的には「関東軍の暴走」などといわれているが、日本の組織としては、けっこう常態となっているパターンである。現場の裁量でこそこそと営業を始めてしまい、結果としての実績数字を積み上げてから、その数字をバックにオーソライズしてしまうやり方は、今でも日本の企業ではよく見られる流れだ。

役人の天下りの椅子づくりも、全く同じである。官僚達は、みんながみんな天下り利権が増えたほうがいいと思っている以上、誰かがリーダーとなって音頭をとらなくても、現場の人間が競って利権作りに精を出す。まあ、ボトムアップ型といえないこともないが、日本式のボトムアップは、多くの場合、組織全体の本来のミッションからすると、マイナスのベクトルとして働くのが特徴だ。

「民主主義」大好きというのは、戦後の日本の特徴である。しかし、20世紀後半の日本における「民主主義」は、西欧的な民主主義ではなく、「甘え・無責任」な人達によって換骨奪胎された、「権利はあっても責任はなし」という利権共有のシステムである。そう考えてゆくと、これは進駐軍の産物というよりも、実は「40年体制」が求め、生み出したものであることがよくわかる。天下り利権に浸る官僚制と、「民主主義」は同根なのだ。

モノゴトの評価には、必ず二面性がある。絶対的にメリットだけというのもないし、デメリットだけというのもない。良い面も悪い面も、きちんと客観的に把握することが重要である。そういう意味では、「40年体制」とそれのもたらした「民主社会」も、日本の戦後復興や経済成長(これ自体、評価は二面的だが)については、プラスの影響をもたらしたことは間違いない。しかし、制度は疲労する。そして、戦後復興も、高度成長も、すでに過去の歴史である。

こう見て行くと、今日本が抱えている問題の多くが「40年体制」の構造的欠陥によるものであることがわかる。百歩譲って過去の評価を行なったとしても、すでに賞味期限切れになった「40年体制」は廃棄しなくてはならない。それに変わるスキームは、容易に見つかる。歴史的にみれば「40年体制」自体、20世紀に世界を席巻した大衆社会化と、西欧に追いつき追い越せという近代化との間に生まれた、特異点である。役目が終わったなら、それ以前の自然な姿に戻せばいいだけのことだ。


(12/10/05)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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