伝わらない言葉





つくづく、言葉で伝えるのが難しい世の中になった。問題が複雑化する分、より枝葉末節な各論を語るのに費やされる言葉の方が多くなった。その分、スタンスは同じであっても、現象面では真逆の対応をしている場合、実はスタンスが同じであることを理解するには、相当な洞察力が必要とされるようになった。根っこが同じであることを、相手に理解させるために必要な言葉をみつけることが極めて難しくなった。

たとえば現代日本で、何らかの組織と関わっているひとならば、メンタルヘルスの問題と関わらずにいることはできないだろう。大きい組織は「スケールメリット」があるんでもちろんとしても、小さい組織でも「隣のメンヘルくん」がいることのほうが多い。そういう中には、いかにも真面目で気の弱いタイプが、旧来型の鬱になった事例もあれば、責任は負わず権利ばかり主張するタイプが、新型鬱になった例もある。

ことこの議論になると、個別の事例の違いばかりがことさら強調されやすい。各論で行く限り、百人百様で構造的な問題の分析はできない。、その結果、もっと大きな構造的問題が見逃されてしまう。確かに抱えている問題は違うが、「仕事への適性がない」コトについては共通なのだ。業務に適性のない連中を、どう扱えばいいかと問題をとらえれば、メンヘルのような病気だけでなく、モラールの低い連中も含めて同じ問題として対応できる。

言葉ではモノゴトが伝わりにくくなったというのは、政治でも同じである。この問題は、昨今の政治の閉塞状況の原因のひとつでもある。民主主義国家では、どんな政治家も「選挙に落ちればタダの人」である。選挙で他の候補者と競い、選ばれなくてはいけない以上、政治家には差別化が必要である。十把一絡げの中に入ってしまっては、落選あるのみ。違いが大切なのだ。

そのためには、違いのための違い、ためにする違いでもないよりマシである。そういうワケで、かびの生えたイデオロギーや、青臭い社会正義を持ち出してでも、他の競合相手とは一味違いを出さなくてはならないし、より自分を魅力的に見せなくてはならない。これが、小異にばかりこだわり、大同につけない原因になっているし、何も決められず、何も前に進まない原因のひとつになっている。

マーケティング的にいえば、選挙に勝つためには、敢えて他の候補者との違いを際だたせる「軸」を提示するのがてっとり早い。だから、少なくとも林立する小政党の数だけ、さらにいえば世の中の政治家の数だけ、差別化の軸は増殖してしまう。そして困ったことに、軸は足し算ではなく掛け算になるのだ。単純な二項対立で考えても、軸がn本あれば、スタンスは2のn乗存在することになる。政治家の数を考えれば、それはほとんど無限に近い。

無限の組み合わせがあるということは、政治家の差別化自体は目的であるのならば、きわめて有効である。しかし、それは政策的に一致する相手がどこにもいなくなることにも繋がる。比較的スタンスが似ている相手でも、コレだけ軸が多くなると、どこか譲れない対立点も出てきてしまう。かくして、政策の一致に基づいて、数の力を担保するという政党政治の基盤はおぼつかなくなる。

突き詰めれば、日本には政治姿勢としては、バラまき利権大好きで、自分もご相伴にあずかりたいヒトと、全て自分の責任でやりたいので、よけいな無駄遣いはやめて欲しいヒトと、二種類しかいないといっても過言ではない。「甘え・無責任」と「自立・自己責任」である。これ以外の論点は、全てタメにするモノといってよい。コンセンサスを作ることが難しい世の中に、「してしまっている」のだ。今こそこれを、考え直す時である。

物事を、白紙から捉えて、もっとも単純なスキームを作れるか。知識と情報に頼り、素直に自分の視線でモノを見れなくなった現代人には、これが難しい。というか、こういうストレートに真実を見通す視線を持った人間では、偏差値を取れないのだ。定説でも常識でも、おかしいものはおかしい。当たり前の話である。今を乗り越えなくては、未来はない。過去と今の知識の上でしか状況を捉えられないヒトに、判断は任せられない。そういう問題意識を持っているヒトだけでも、大同につくことを考えるべきなのだ。


(12/10/19)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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