グローバル人材






社会と人間を、ジグソーパズルとそのコマにたとえると、この世には二つのタイプの人間がいることがよくわかる。第一のタイプは、自分だけで、自分のカタチがわかるヒト。コマ一つだけ存在していても、自分がジグソーパズルのコマであることと、コマとしての自分のカタチがわかることは当然として、場合によっては自分に描かれている模様から、パズルの完成形が何の絵かまで、ちゃんと理解することができるヒトたちである。

第二のタイプは、コマ一つだけでは、自分の形のみならず、自分が何者なのかすらわからないヒトたちだ。ある程度パズルが完成し、繋がったパズルの中にできた隙間を見てはじめて、自分がそこに入るべきジグソーパズルのコマであることに気付く。当然、自分の形も、そこにある「穴」を見てはじめてわかる。どういう絵になるかも、実際に出来上がってみるまではわからない。

日本人においては、後者のタイプがほとんどを占めている。日本人は、自立した「自分」という存在がないヒトがほとんどなのだ。自分は何者なのかは、自分一人でいたのではわからず、集団との比較においてしか把握できない。まさに、群衆の中の「自分が入るべき穴」としてしか、自分を捉えられない。自分のアイデンティティーを見つけるためには、当然、派閥、徒党を組むことになる。

これはまた、すでに集団がある場合、そことの同質化・一体化への指向を強めることとなる。これは、相手との距離感を実際以上に縮めようとすることにつながってしまう。実態がどうであろうと、互いに「信頼がある」ことを前提してしか行動できなくなる。信頼を元にしてしか動けなくなると、けっきょく相互依存になってしまう。かくして、派閥の求心力は、自己目的的に高まってしまうのがオチだ。

相手を実態以上、必要以上信じることは、けっきょく、相手に対する甘えに過ぎない。相手の人間性は、今自分から見えている相手が全てである。それ以上を期待したり求めたりするのは、妄想のレベルだ。これは、相手からみた自分についても同じである。現実に、相手に見えている以上には理解されることはない。それ以上を期待するのもまた、甘え以外の何物でもない。

人間は、外から見えている以上でも以下でもない。それを前提にしてヒューマンマネジメントを行なうのが、組織運営のグローバルスタンダードである。相手に過剰な信頼を置かず、外から見える範囲で使う。精神論を振りかざして、実態以上のものを求めたり、背伸びさせようと思っても無理である。海外進出で失敗する理由の一つが、こういう連中を使いこなす組織運営ができないからだ。

すでにここで何度も分析したように、高度成長期の日本は、世界史的にみて特殊だったのだ。戦後の荒廃で、戦前以上に貧しく飢えていたが、そこから抜け出る可能性が見えていたからこそ、人々が上昇志向を持っていた。いわば、入れ食いの状態である。そこにエサをばら撒けば、争うように飛びついてくる。そのプロセスにおいては、能力以上の成果を発揮することも多く見られた。

相手に期待せず、人をマネジメントするにはどうしたらいいか。それは、相手に考えさせず、明確なディレクションをして、エクゼキューションに徹させるコトに限る。無責任な学生ビジネスをウマく使うのも、ここがポイントになる。期待せず、相手の見えているポテンシャルの範囲で、タスクと〆切を明確に指示する。余計なことを考えさせてはいけないのだ。これをやらないと、生半可秀才なヤツは、自己裁量と称してお手盛りで勝手なことをやりはじめる。官僚たちがそうであるように。

自分が自立している人間は、こういうマネジメントができる。全員面従腹背でも、面従の範囲でつかうなら、組織として使いこなせる。期待しなければ、モノは使いようなのだ。これが、グローバルスタンダードの組織論である。これができると、極端な話、敵でも戦力として使えてしまう。ある意味、スパイは必要以上に忠誠心を示して組織に入り込もうとするので、その部分だけをウマく使いこなせば、かなりのパフォーマンスをあげることができる。

こういう人間作りにはどうしたらいいか。それは、小さいときから「オマエは一人なんだから、自力で何とかしろ」と、突き放して育てるしかない。自分以外の人は、たとえ親兄弟でも、裏切って見捨てるリスクがある、と。このやり方は、常に相手のリスクを考える分、危機対応力も養えることになる。だからといって、常に喧嘩腰ということにならない。このほうが、かえってどんな相手とも適切な距離感を計れるので、それなりにウマく関係性を作れるのだ。

(12/10/26)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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