バラマキ延命





航空でも海運でもバスでも、およそ公共交通機関というのは、運搬手段を所有してその運用を行なうものの、インフラそのものは天下の共用物を利用するのが基本である。バス一台、ヘリ一機、船一隻でも、運輸事業は行える。その点、鉄道は、自前の専用のインフラを、基本的には自ら所有しなくては、事業を行なうことができない。この特殊性が、鉄道のメリットもデメリットも規定することとなる。

世界的に見て、陸上交通が未発達だった19世紀には、この特性は独占的な利益をもたらした。道路より先に鉄道を敷いてしまえば、その区間の輸送需要を独占できたのである。日本においても、このような戦略で鉄道が敷設された。自動車が発明されるとともに道路網が整備され、陸上輸送の基本が自動車に移っても、かつての路線だけは残ってしまった。ここに、経済的には無用の長物となってしまった、赤字線の問題が起きることになる。

もちろん、現代の先進国においても、鉄道の存在意義はある。しかしその特性から、運輸事業としての鉄道のメリットが生きるスキームは限られる。それは特定区間で、莫大な輸送ニーズがコンスタントにある場合である。日本で言えば、地下鉄と大手民鉄、JR通勤区間に代表される大都市圏の都市内・近郊での通勤通学需要と、新幹線に代表される中距離大都市間輸送は、世界的に見ても現代的な鉄道のメリットが活きる路線だ。

その逆で、鉄道のインフラを維持することすらできない路線も数多くある。JR東日本などは企業規模が大きいので、収益性の高い路線からの上がりで赤字路線を補填しても、充分利益が上っている。ある意味、公共性の名の元にこれを正当化しているが、ぼくが大株主なら、赤字の垂れ流しは早く廃止しろ、と株主代表訴訟を起こすところだ。かように、赤字ローカル線とは、21世紀に残る19世紀の残渣なのである。

この問題では、「地元高校生の通学の足が奪われる」という議論が持ち出されることも多い。しかし、これは原因と結果をはきちがえている。鉄道がそこにあったから、生徒が通学に使っているのであって、鉄道がなければ高校が成り立たないわけではない。甚だしきは鉄道のない離島にある高校だろうが、鉄道の便がない立地の高校も全国にたくさんある。鉄道があった分、恵まれていたというだけのことでしかない。

国全体が貧しかった20世紀前半の日本ならイザ知らず、今の日本社会をベースとするなら、フォローの仕方はいくらでもある。山間僻地には、原付通学を奨励している高校もある。原付は、どうせ生活に欠かせないモノである以上、学校でも積極的に取りいれ、安全教育をしようという考えかたである。それならもっと進めて特区化し、高校生には学区内のみで有効な軽自動車限定免許を発行して、軽自動車で通学すればいい。

このほうが、鉄道の通学列車にみんなが合わせるため、毎日時ならぬ田舎のラッシュを演出させられるより、生徒の負担はよほど少ないし、日々の生活そのものもずっと楽しくなるだろう。そういう個人的メリットだけではない。鉄道の定期を買うより、原付や軽自動車で通学するほうが、日本経済に対する経済効果も余程大きい。足を奪っているのは、鉄道の廃止ではなく、頭の堅い学校関係者の規制なのだ。

弱者の代表として、移動手段を持たない老人ヘの対応も、よく取り上げられる。確かにかつての「三ちゃん農業」ではないが、ローカルの鉄道やバス路線で、高校生と並んで目立つのは老人である。老人しか住んでいない、「限界集落」も多い。しかし、これからの老人の問題は、昭和の老人の問題とは根本的に異なる。まず、現在の60代・70代は、戦後の集団就職以降の世代である。そもそも、それ以前の世代とは違い、地に根が生えていない。

その世代のマジョリティーが、若いうちに都市部に移住してしまっている。次がいない以上、限界集落が廃村になるのは時間の問題だ。そして全国的に見て、人口減の時代になっており、家不足・土地不足は解消し、住みたいところに住める。北海道では、老人が施設や環境の充実した札幌市周辺に集中している。同様に、全国的に見ても、生活のしやすい都市部で老後を過ごそうという人は、ますます増えるだろう。老人の方が移動するので、この問題は時間が解消することになる。

上下分離による「公設民営」の発想も広がっている。しかし、問題はこれもまたビジネスとして成り立たない事業に、税金を投入しようという「バラマキ」の一環でしかないところにある。百歩譲って、地方公共団体の支出に監査があり、鉄道への補助金の方が、道路の建設や、バス等他の公共交通への補助より、ずっと費用対効果が高いことが担保されているなら、「公設民営」にも意味があるだろう。

だが、ご存知のように行政による補助金は、全くのブラックボックスである。けっきょくは、恣意的なバラマキ利権になってしまう。実際、補助金のついているバス路線など、経営母体が破綻すると、周りの相対的に余裕のある事業者によって取り合いになると聞く。個々の補助金自体の費用対効果が曖昧なだけでなく、その事業が補助金をつけるに値するかどうかということ自体が曖昧なため、住民のためというお題目もどこへやら、たちまち利権化してしまうのだ。

まさにポイントはここにあらわになっている。鉄道の廃止問題が持ち上がると、全く鉄道を使わない住民も、なぜか廃止反対などとにわかに言い出す。それは、鉄道が生活必需品ではなく、利権構造の象徴であり、そこにメスが入ることで、みんながいい思いをしている現在のバラマキ利権構造全体が変化してしまうことを恐れているからなのだ。そもそもローカル線は、「我田引鉄」で敷設されたものが多い。その出自からして、まさに利権構造の権化ということができる。

その路線が、すでにビジネスベースで成り立たなくなっているということは、その地域でその路線が持っている社会的機能、経済的機能を最もよく表している。そういう鉄道を廃止せずに続けるというのは、体制が崩壊するのを防ぐために、あらゆる手を尽くして権力者の延命措置を図るのと似ている。それは、利権でおいしい思いをしている人を除けば、誰にとっても不幸でしかない。

その鉄道へのノスタルジーは、美しい記憶の中にとっておけばいい。使命を失ってもなお、老醜をさらしている姿など、絶頂期を知っている人にとっては、本当は見たくないはずである。鉄道が好きな人ほど、本当はそういう思いが強い。「今ある」のを前提とするのではなく、白紙から鉄道というインフラが存在意義を持つのはどこか、そしてそれが本当に30年後、50年後にも意味を持つのか。それをまさに考えるべき時がきているのだ。


(12/11/02)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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