essay 775

「マーケット・イン」の心





原始時代の生贄や、古代の殉死など、命をより大きなものに捧げる行為は、長い人類の歴史の中では、ごくごく一般的に見られたものである。現代人の感覚からすると、理解できなかったり、かわいそうだと思ったりしがちだが、当時の人々の思いは、当時の人々のメンタリティーを理解し、それに基づいて考えなくてはならない。現代人の感覚で、古代人、原始人の価値観を考えても意味がない。

少なくとも、人類が常に死の危険にさらされ、おびえる必要がなくなったのは、たかだかこの2〜300年のことである。それ以前は、飢えて死んだり、病で死んだり、人生は常に死と隣り合わせであった。そのような時代においては、現代のように死ぬことが恐いという感覚を持つ余裕などない。それよりも、死を避けがたいものとして受け入れ、より尊厳ある死に方を選びたいと思ったはずだ。

従って、そういう時代の人々にとっては、みすぼらしく飢えて死ぬより、神に捧げられる生け贄になって栄光の中で死んだ方が、よほど幸せであり栄誉だった。古代人のメンタリティーからすれば、そうだったに違いない。犬死にか、栄光ある死か。その時代の価値観の軸の中で、より栄えある方を選ぼうという発想は、人間である以上変わらない。どうせ死が想定内であるのなら、当然栄光ある死を選ぶだろう。

そもそも、神がかったり、神が憑依したりする瞬間は、最高のエクスタシーを伴う。あらゆる芸能や芸術が、古代においては神がかった宗教的行為と結びついていたことからもわかるように、神との一体化というのは、至高の瞬間である。また、死とエクスタシーの結びつきも深いものがある。そう考えれば、古代において生け贄になって死ぬことは、恍惚の極致であったことは容易に想像できる。

中東地区では、今でもイスラム原理主義のテロリストによる聖戦や自爆テロが、日夜繰り返されている。神のために死ぬこと、死ねることが、至上の幸せな人たちは今でもいるのだ。この動機は、思想やイデオロギーではない。それでは人は死ねない。もっと肉体的な、エロス的な快感なのだ。宗教の強さは、それが前頭葉の理屈ではなく、より肉体的、エロス的な悦びと結びついている点にある。

死に崇高なエロス、崇高な喜びを感じていた人は、日本でも戦時中には確実にいた。いや、戦後も神の姿が即物的な金や名誉になっただけ、すなわち崇拝の対象が神から悪魔に代わっただけで、精神構造は変わっていない。絶頂の先には死しかないことがわかっていても、悪魔に魂を売り渡し絶頂を味わおうとした「黒社会の紳士」達も、バブル期にはたくさんいたではないか。

このように、人の価値観は、その人が生きている時代によって大きく変化する。時代が同じでも、その人が拠って立つ社会によって大きく変化する。価値観を理解するためには、その世界を生きていたヒト、活きている人の「リアル」がわからないと、意味がない。相手の価値観を理解するのがマーケティングの極意である以上、このような価値観の相対化は、その違いを理解するためのファーストステップである。

日本の企業、いや日本の企業人が最も苦手とする、マーケット・イン。それは、相手の気持ち、相手の価値観を自分と相対化し、理解することである。そういう意味では、崇高な死を選び、生贄として神に捧げられることに至上の悦びを感じる、古代人のメンタリティーを理解することが、「マーケット・イン」であり、現代人の感覚から生贄を考える発想が「プロダクト・アウト」なのだ。

今の自分を基準にモノゴトを考えないこと。自分の意見や考えを相対化できること。それは、実に有用である。たとえば小説や映画など、自分の主観的価値観からだけ見るのではなく、全く違う他者の視点からも見れるならば、同じコンテンツであっても、何度も楽しめることになる。これができれば、人生は楽しく明るく過ごせるのだ。

実は、自分と全く違う立場の相手ほど、理解するのはたやすい。自分と重なるところが少ない分、理屈でもロールプレイがたやすいからだ。一方過激派の内ゲバではないが、大筋は似ていてもちょっとだけ違う相手、しかもそのちょっとの違いにアイデンティティーをカケているような相手が、一番理解が難しい。だからこそ、古代人ではないが、異質なメンタリティーを理解することは、マーケット・インを学ぶ第一歩としても意味がある。


(12/11/23)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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