essay 776

選挙の季節に思うこと





さて、すでにネタも飽きてきた感があるが、2012年の12月といえば選挙である。衆議院議員選挙に加えて、東京では東京都知事、区によっては都議会議員の補選すらある。今回は、既存政党の崩壊から、数多くの小党が乱立する展開となっており、小党同士の合従連衡策の行方とともに、改めて政策議論や、民主主義とは何かという議論が、メディアをにぎわす状況になっている。

とはいうものの、もはや選挙が政策で決まる時代は終わってしまった。この20年、無党派層とか劇場政治とかいろいろいわれたが、選挙へのモチベーションは大きく変わった。今や、政策ではなく、面白いか、楽しいかで候補者を選んだり、選挙に行くかどうかを決めたりするのは当たり前である。現在生産年齢にある生活者の行動基準は、すべてこの「面白いか、楽しいか」であり「良いか、正しいか」ではない。

実は、日本の大メーカーが失速したのも、この生活者の変化がもたらした影響だ。日本の製造業が没落したのは、「良いモノを安く」というプロダクトアウトのモノ作りしかできなかったため、面白いもの、楽しいものを生み出すことができず、この変化についてゆけなかったからである。マーケットインなら、高くても面白いもの、楽しいものを作るほうへシフトできただろう。

いつも言っているように、マーケティングとは、事実を肯定して受け入れることから、全てがはじまる。マーケットの現実は、常に正しいのだ。送り手、作り手の側として、その結果に不満があったとしても、マスを相手にしようする限り、逆らうことは不可能である。それがいやなら、送り手側の信念を理解してくれるニッチなマニアだけをターゲットに狙えばいいだけのことである。

ランキング番組が人気だが、そういうベストランキングを見ると、たとえばファストフードなどの売り上げ上位のメニューと、スターシェフなどプロが選んだそのチェーンのおすすめメニューとは、一致しないのが常識である。これが、マスの力である。大衆は、自分がおいしいと思うメニューに、自信を持っている。大衆は、自分の選択に 楽しい、面白い という視点から自信を持っているのだ。

同じことが民主主義にも言える。民主主義とは、マスマーケティングの一種である。民主主義を選択している以上、マス民意の選択こそ正しく、その結果が気に入らなくとも、受け入れるべきである。ところが、そこがわかっていない人が多い。リベラルを標榜し、民主主義の保護者を自認しながら、その結果行われた選択が気にくわないと、ポピュリズムと言って否定する有識者はけっこう多い。

これを二枚舌と言わずして、何と言えよう。マスが正しいのが民主主義である以上、マスの選択に、良いも悪いもない。そしてそもそも、今の大衆は、「良いか、正しいか」ではなく、「面白いか、楽しいか」を基準に選択を行なう。有識者がポピュリズムと呼ぶ選択は、マスによる民主的な選択の結果である。ポピュリズムを否定するなら、民主主義を否定すべきである。

絶対王権でも封建制でもなんでもいいのだが、もし議会制を取り入れるのなら、最低限、一定以上の有産者による制限選挙にすべきだろう。大衆の選択が信じられないのなら、それしか選択はあるまい。制度としての普通選挙による民主主義を肯定しながら、その結果そして必然的に現れてきた大衆の判断を否定するのは、スノッブなエリート意識、選民意識でしかない。

生まれも育ちも高貴な人ならいざしらず、大衆出身でありながら、たかだか偏差値が高かったというだけの学識者がこういうコトを言うのは、笑止千万。大体、いつの時代もそうである。美空ひばりや石原裕次郎は、亡くなった今でこそ、昭和を代表する大スターであるが、リアルタイムでは、スノッブやアカデミックな評論家や有識者は、鼻にもひっかけないような、文字通り無視としかいえない反応だった。

けっきょくは、そういう批判をする人達こそ、自己正当化のために現実を否定しようとしているのだ。かつては、そんな「上から目線」が必要とされた時代があったかもしれない。しかし、そんなものは犬も喰わない。それに、政治家は、芸人のような人気取り稼業になったほうがいい。その座に胡坐をかいて利権誘導でもしようものなら、たちまち一発屋のように消えてしまう。人気を得ることがいかに大変か、一度経験してからいうべきだ。


(12/11/30)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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