essay 777

寛容の国





社会の情報化や高度化が進むとともに、多様性や多様な価値観を尊重する、ダイバーシティーという考えかたが重視されるようになった。しかし日本においては、ダイバーシティは決して新しい考えかたではない。人間も自然も、全てのものに各々神が宿っているという、日本人の心象の基底にひそむアニミズム的土着宗教観、すなわち「八百万の神」こそダイバーシティーと共通する考えかたである。

欧米は、一神教であるキリスト教をベースとした社会である。唯一絶対の神以外は認めないし、ましてやあらゆるものに各々の神が宿っているなどという多様性は、到底認めることができない。だからこそ、ダイバーシティーという「新しい考えかた」を導入する必要があるのだ。しかし日本のような土着的多神教信仰があるところだと、多様性に対する考えかたは大きく違ってくる。

多神教と一神教の一番大きな違いは、対立する意見を受け入れられるか、それとも自分の意見を相手に押しつけたいだけかという点にある。一神教は、違いを認めない。したがって、自分と意見が異なる相手とは、命を賭けて正当を競うことになる。だから一神教同士は、宗教戦争を起しやすい。これは有史以来の歴史を振り返ってみれば、すぐわかることである。同じ神を信じるキリスト教の教派の間でも、教義の違いで血が流れる。

その一方で、多神教は違いを大切にする。もちろん、多神教だからといって、一切差別したりイジメたりしないというワケではない。しかし、相手の存在自体を否定したり、相手を抹殺したりしようとすることはない。差別者と被差別者の関係でも、「村八分」どまりなのだ。「二分」は相手の存在を認め、共存している。西欧キリスト教圏では、異分子を認めず、同化するか、さもなくば死かという選択しかない。

違いを認め合うためには、勇気と自信がいる。それをサポートしてくれるのが、多神教的なメンタリティーだ。これこそ、古い日本が持っていた許容の精神である。もっともこの精神は、近世になり経済が発展すると、かなり怪しいものになってくる。そして、近代以降の、西欧化、中央集権化とともにどんどん失われた。それでも、ちょっと距離を置いてくれれば、異質なものがいても気にならないという程度の寛容さは残っていた。

この精神が失われたのは、日本が豊かな社会になった、1970年代以降のことである。高度成長期までの、貧しい時代の記憶を残した社会では、喰ってゆくことが精一杯であり、おいしい思いをする余地がなかった。その時代においては、利権を争って求め、独占するような社会ではなかった。傾斜配分方式に代表されるように、バラ撒くどことか、社会的リソース自体が不足していたのだ。

70年代から、利権構造の大衆化が始まったが、これが世の中の基調となったのは80年代以降である。安定成長になり大きい変化が望めなくなるとともに、本来の貧しい時代の組織の建前や目標が崩れ、組織の維持発展自体が目的化し始める。その代表例が、中央官庁の官僚機構と、労働組合や革新政党といった「左派」勢力だろう。これらの組織は、貧しい時代にはそれなりに存在目的があった。

しかし、日本が経済大国になると、それまでの時代における組織の存在意義が失われたしまった。この両者は、その代わり組織の維持発展自体を自己目的化した点で、好一対といえるだろう。利権を自分たちの元に引き寄せ、そのバラマキ再配分を利権化し、組織のモチベーション化する。既得権と組織の維持には、線引きの論理の一層の明確化が有効である。労働組合が若者の雇用を奪うといわれるが、まさに最強の既得権擁護集団なのだ。

自己目的化した利権集団を、「第二期40年体制」と呼ぼうか。反差別を標榜する組織は、本来なら差別が解消すれば目的は達せられるはずだ。しかし、それでは組織の存在意義もなくなるし、組織に付随した利権も消えてしまう。かくして、組織の自己目的としては、差別がなくてはならなくなってしまう。元来八百万の神の日本で、ダイバーシティーを阻害しているのは、この利権を目的化した組織の論理でしかない。

ということは、これも解決は簡単だ。利権の財布、打出の小槌をニギっているのは官僚だ。そして、その財布の中身は税金なのだ。自己目的的なブラックボックスと化した官僚組織を解体すれば、全てが解決する。国や地方自治体の債務も、元をたどればバラ撒きで使ってしまったからだ。無駄な税金は取られず、財政は再建し、平等な社会が実現する。なんとすばらしいことだろう。そして、官僚達は、なんと日本をメチャクチャにしたのだろう。腹を立てるべき相手は、こいつらなのだ。


(12/12/07)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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