essay 778

民主主義と市場原理





民主主義は、その根幹に自由競争の原理、市場の原理が内包されている。自由な議論をつくした上で、多数決により選択を行うという考えかた自体が、市場のメカニズムそのものである。従って、民主主義社会においては、市場原理により行なわれた選択が、実は最大多数の最大幸福を実現する最適解となる。政策判断においては、ちゃんとコストを算出し、きちんと費用対効果を計算すればいい。

逆に、真っ当な政策が選択されないのは、キチンとしたコスト計算がなされていないことに起因する場合が多い。かつて昭和30年代〜40年代にかけての高度成長期には、経済の発展とともに公害が大きな社会問題となった。これなど、ユガんだコスト計算の典型例である。そもそも廃棄物の処理コストを計算しないままコスト計算を行い、それを前提とした企業経営を行なっていたのだ。

その分コストは下がり、特に低価格で競争力を得ていた輸出産業には大きなメリットがあっただろう。しかし、しっぺ返しは後から来る。けっきょく社会問題になってから、公害対策を急いで行なわなくてはならなくなっただけでなく、それまでの公害汚染に対する補償や、原状復帰のコストを支払わされることになった。長い目で見れば、最初から廃棄物に対するコストを勘定しておいたほうが、余程安くついただろう。

このように、日本では政策的にバイアスがかかり、真っ当な社会的コスト計算がなされないことが多い。逆にいえば、社会的コストの計算さえ正当なものなら、政治的倫理主義や精神主義を持ち込まずに、純粋に市場原理に任せてしまったほうが、全体最適となる選択を実現しやすいことになる。たとえば、感情的には議論が分かれる、原発や核武装などの問題も、市場原理を持ち込めば、クールに民主的な判断が可能になる。

たとえば、原発について考えてみよう。いままでの原発のコスト計算は、使用済み燃料の処理コスト、廃炉処理のためのコストを意識的に外して算出していた。確かに、これらのコストは電力会社の単年度のP/Lには出てこないかもしれないが、原発事業への投資・回収という、B/Sレベルの数字を考えれば出てこないほうがおかしい。ここまでは、電力会社の収支である。しかし、その外側のコストもある。

原発が立地している地域に行けば、人口の割りに、道路やハコモノ行政が桁外れに立派なのに驚かされる。これを支えている、税金から行なわれる地元への莫大なバラ撒き補助金も、原発のコストに参入すべきである。これは、発電所の立地だけではない。発電所から都市部への送電線が通っている自治体でも、異常なまでにハコモノが充実している。ここにも、税金はバラ撒かれているのだ。

これらをカウントすれば、原発のコストは決して安くないことがすぐわかる。需要地域である都市部に、小型の火力発電所をたくさん作るのと、過疎地に巨大な原発を作るのと、プロジェクト同士で全コストを比較しなくてはおかしい。そして、その比較ができるのなら、あとは市場原理に任せればいい。ヒステリックな金切り声を上げなくとも、原発はコスト的に見合わないのだ。これが一番説得力がある。

核武装も同様である。核武装にかかる開発コストもさることながら、この場合は、核武装により得るメリットと、核武装により失うコストとの比較である。目の子で計算しても、失うコストのほうが大きいことはすぐわかる。それだけでなく、核武装すれば世界を敵に廻すことになり、核戦力を開発・維持する直接コストだけでなく、通常の軍事費が膨大に膨らみ、国民的負担が大きくなりすぎる。

市場原理により計算してみれば、核武装が間尺に合わないことは容易に証明できる。核武装が無意味なことを証明するには、精神論ではなく、コストに基づく議論のほうが大事だし、余程有用である。一度議論してコンセンサスができてしまえば、簡単には崩れない。かつての革新政党やリベラル派は、本当に原発反対、核武装反対ならこういう議論をすべきなのに、なぜかしないのだ。

それは、革新政党や組合など「左派」のヒトたちは、本質的に利権が好きな人たちだったり、利権の分け前にあずかりたい人たちだったりするからだ。二言目にはすぐ、「俺たちにもよこせ」と叫び出すことが、それを証明している。彼らは、市場原理を嫌う。それはまともな議論や市場原理は、合理性のないバラ撒きを否定する方向に働くコトを本能的に感じ取っているからだ。

だからこそ、精神論に置き換え、まともな議論を否定する。それは、まやかしの「護憲」も同じだ。本当にあらゆる武装を持たない国を目指すなら、曖昧な解釈で自衛隊を保持できてしまう日本国憲法を改正し、いかなる拡大解釈も許さない、真の平和憲法を作るべきだと主張するのが筋だ。日本国憲法は、絶対的に武力を持てず行使できない平和憲法ではない。

口先だけの平和主義が、ごり押しで「護憲」に置き換えられてしまうのは、現行の体制に変化が起こり、今得ている既得権が脅かされることを防ぎたいからだ。護憲とは、言葉面は格好いいが、要は現行の「既得権益」を、現行の憲法で象徴させただけのことに過ぎない。今のおいしい体制を変えたくない。所詮「護憲」とはその程度のものである。日本が貧しかった時代はイザ知らず、リベラルの化けの皮は、もうすっかり剥がれている。

市場は平和を好む。コストに見合う戦争というのは、少なくとも戦争が、国家間の総力戦の時代になってからはありえない。戦争が起きるのは、コスト意識を吹き飛ばしてしまうおかしな精神論が闊歩したときか、そもそも市場原理的に成り立たなくなった体制を力づくで維持しようとするときである。そして、それに唯一抗することができるのは、市場原理である。現代社会の最後の砦、それはコスト意識に基づく議論なのだ。


(12/12/14)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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