essay 779

貧しき団塊(その1)





このコラムでも、すでに何度も論じてきたことだが、団塊世代が育った昭和20年代は、日本社会がまだまだ貧しい時代であった。当時は、人口の2/3が農村部に生活し、GDPも戦前で最も景気のよかった昭和10年代前半の水準に遠く及ばなかった。ちなみに、有名な昭和31年度版経済白書の「もはや戦後ではない」の「戦後」とは、この「戦前の経済力を回復していない期間」という意味である。

まさに、昭和10年代の水準を回復するのが昭和31年。ここから、高度成長が始まるのである。これを「戦争からの復興が成し遂げられ、豊かな社会になった」と解釈する向きが多いようだが、とんだ間違いである。経済回復のスタート地点に立った、という意味である。浄土真宗の「他力本願」と同じぐらい、勘違いで解釈され、誤用が多いフレーズなので、注意した方がよいだろう。

さて、貧しさの中で育ち、それがトラウマとして刷り込まれると、心も貧しくなる。要は、貧しいがゆえに卑しくなるのだ。「金持ち喧嘩せず」とはよく言ったもので、洋の東西や歴史の流れを問わず、差別やイジメは、貧しい階層の人々の間ほど起きやすいし、内戦等の戦乱も、貧しい社会ほどおきやすい。この事実が、なにより経済の貧しさが心の貧しさを生み出すことをを示している。

当然、団塊世代のヒトたちには、都会の中産階級以上で育った一部の人々(全体の2割以下だが、母数が多いので侮れない存在ではある)を除けば、貧しく育ち、心も貧しい人が多いのである。根っコが貧しいからこそ、みんながちょっとでもおいしい条件を求め、強力な上昇志向を発揮するがために、圧倒的な求心力が生まれ、団塊と呼ばれる語源になったように、すぐ集団として群れることになる。

また、80年代に入り安定成長になるとともに、それまでの経済成長のためのスキームが陳腐化し、経済成長に貢献した組織は、自己目的的な「バラ撒き利権組織」となった。その理由の一つが、当時、官僚組織でも、労働組合でも、民間企業でも、利権組織となった組織の現場の第一線で活躍していたのが、団塊世代であったことに帰される。とにかく、彼らは大家族の中で育ったので、発想が「オレのものはオレのもの、他人のものもオレのもの」なのである。

さてその80年代、まさにバブル期までの日本の消費市場においては、真の意味での財やサービスの価値が問われることはなく、「付加価値」は表面的なものでしかなかった。「為にする違い」であっても、差別化できたのだ。特に国産品では、この傾向が強かった。それまで「追いつき追い越せ」で「物まね」しかできない日本メーカーには、欧米基準の「高級品」など、夢のまた夢でとても創れないモノであった。

その当時の日本メーカーが作っていた「高級品」は、「上等な二級品」でしかなかった。どこをとっても決して高級なものではなく、どこにも付加価値などないモノであった。これは、当時団塊世代が好んで買い求めた「偽ブランド商品」が、本物とは似ても似つかない粗悪品に、有名ブランドのマークだけつけたものだったことからもよくわかる。また、かつてダイエーがその絶頂期に販売していたアパレルなども、「上等な二級品」の典型である。

目先のブランドマークにだけ惹かれというるのも、むべなるかな。貧しい中で育った人には、モノの本質的な価値がわからないのだ。やはり当時流行ったが、クルマの「エンブレムチューン」みたいなものである。もっともこの時代は、メーカー自身が、同じ車でも、メッキパーツをつけ、座席やドアの内張りをふかふかなものにするだけで、デラックスとか称して、高く売っていたぐらいなので、推して知るべしである。

高度成長期というのは、人々の中身が変わらないまま、財布の中身だけが暖かくなってゆく時期なので、ある意味これは仕方ないことである。しかし、時間が全てを解決する。世代が代わり、豊かな時代になってから物心ついたヒトたちのほうが多くなれば、自然に価値観は変わってゆく。日本においてその転機となったのは、ちょうど昭和から平成への移行期と重なった、バブル期からバブル崩壊に至る時代である。次回は、この分水嶺を越えてからの変化について考えてみたい。


(12/12/21)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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