essay 781

無限責任の美学





世の中、リターンを期待するのであれば、何らかのリスクを取らなくてはならない。どんなに安定的であっても、「ローリスク・ローリターン」であって、「ノーリスク・ローリターン」なんてものは、この世に存在しない。ノーリスクで得られるのは、ノーリターンだ。しかし、日本人には、限りなくノーリスクを指向する人間が多い。ノーリスクでリターンを期待する向きを、「無責任」という。

だからこの国では、リスクを見えにくくすると、それだけで安心してノってくる輩が多い。リスクとリターンといえばギャンブルであるが、年末ジャンボの大行列など、相変わらず「宝くじ」の人気が高い。意識していない人が多いようだが、そもそも宝くじもギャンブルであり、それなりのリスクがある。配当率の低さと、運をコントロールする術がないことを考えると、実はけっこう「ハイリスク・ローリターン」である。

これなど、リスクを見えにくくするとホイホイ乗ってくるいい例だろう。これを、代表的なギャンブルである競馬と比べてみればよくわかる。競馬においては、何をどういう基準で選び馬券を買うかは、全て賭け手の自己責任である。さらに、いろいろ推理することで、賭け手の側でのリスクコントロールが可能である。実際、地方競馬のトレーニングみたいなレースだと、配当は低いがかなり展開が読めたりする。しかし、世間的には宝くじより競馬の方がギャンブル性が強いと思われていたりする。

組織のリーダーたるものは、ハイリスク・ハイリターンの決断をしなくてはならない宿命にある。そういう意味では、「ノーリスク・ローリターン」を期待して宝くじにうつつを抜かすような「大衆」は、それだけでリーダー不適格者である。日本社会の不幸は、年功制や偏差値制で、そういうリーダー不適格者をリーダーの座に選んでしまうところにある。これでは、競争力も成長力も生まれない。

サラリーマン社長では、もともと失うものがない。社長の肩書を失っても、入社前の一個人に戻るだけである。それではリーダー足り得ない。リーダーシップは、無限責任であるべきなのだ。世襲や家業のいいところはそこにある。世襲や家業の場合、オーナーが失う可能性のあるリスクは、財産だけではない。ブランドを人格化して体現している以上、信用や名誉も失う。こちらの方が、より大きなリスクである。

金は失っても、天下の廻りモノ。またがっぽり稼いで、一旗あげることも不可能ではない。しかし、家のブランドは、それが長年かけて築いたものであればあるほど、一旦失ったら、二度とは元にもどらない。江戸時代の大商家では、家そのものを維持・発展させることが最重要視された。家とは、そこに体現された、有形・無形の資産の蓄積のことである。当主は、単に何十年かその運用を任されただけの存在でしかなかった。

明治半ば、19世紀までの日本における、華族・士族、豪商、豪農といった有責任階級においては、このような家の考えかたが基本ルールであり、ガバナンスの源であった。これは大日本帝国憲法の条文からも見て取れる。明治憲法の第一条は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」という有名な条文である。しかしこの条文は、第三条の天皇は神聖にして侵すべからずと同じぐらい誤解(曲解)されている。

この条文では、今上天皇とか天皇陛下とか、特定の一天皇を示す表現ではなく、「万世一系の天皇」という「皇統」を意味する表現になっている点に注目すべきである。統治するのは、特定の天皇個人ではなく「万世一系の天皇」となのである。いわば「天皇家」が統治するといっているに過ぎないのだ。この主旨は、伊藤博文や井上毅など、直接憲法制定に関わった人の発言を読めば、すぐわかることである。

統治するのは、天皇家という伝統なのであり、今の天皇は、その代理人として存在しているし、その機能も天皇陛下に天賦で与えられたものではなく、伝統を受け継ぐことによってのみ担保される。今上天皇は絶対的な存在ではなく、天皇家の伝統を遵守してこそ、天皇としての存在が与えられるシステムなのだ。「現人神」も同じことであり、天皇が神なのではなく、神が天皇に憑依している状態を示している。

このように19世紀までの考え方では、無形の伝統こそ本質なのだ。これが、家制度の根幹である。当代の当主は、伝統の前に身を正す。伝統を遵守し受け継いで初めて、プレゼンスが生まれる。ある意味、これはグローバルに通用する責任感であり、リーダーシップである。日本の有責任階級の間には、歴史的な責任のカタチ、歴史的なリーダーシップのカタチが存在していた。決して、日本人の全てが、昔から「甘え・無責任」だったワケではないのだ。

これらの伝統は、20世紀とともに始まった日本の大衆社会化により、社会的コンセンサスではなくなった。その第一の波は、大正デモクラシーから昭和初期の普選法に至る無産者の台頭である。これは無産者が政治以上に強烈に支持した、軍部と維新官僚の台頭により「40年体制」として成就する。しかしそれでも、社会全体から伝統的なものを一掃するには至らなかった。それが達成されるのは、戦後の高度成長によってである。

経験的にいえば、有責任階級の末裔たちの間では、東京オリンピック以前の昭和30年代頃までは、こういう伝統的な「家」意識に基づくリーダーシップやガバナンスのあり方が共有されていた。人間の意識がそう急には代わらない以上、昭和40年代頃までは、そういう「責任観」が残っていた。少なくとも、そういう家庭で育った40代以上の人には、家に対する無限責任の意識が刷り込まれていておかしくはない。

今ならまだいるのである。日本的な自己責任意識を持った人たちが。問題は、そういう人々が、かつてのように社会的エリートとして敬われていない点だけである。しかし、考えてもみてくれ。大多数のノーリスクで無責任に暮らしたい人に対して、この人たちは、喜んで責任を取ろう、リスクを取ろうとしてくれるのだ。やはり問題は「育ち」である。責任を取るように育てられた人だけが、リーダーシップを取るようにすれば、この国はまだまだ捨てたものではない。


(13/01/11)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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