essay 783

「社員」の歴史(その1)





はじめに

21世紀になり、日本においても雇用形態が多様化するとともに、正規雇用・非正規雇用の問題や、ひきこもり・ニートの問題など、雇用・就労に関しての議論が喧しくなってきた。そのような議論で最も気になるのが、雇用や就労が、常に企業への正社員雇用をあたかも前提として語られている点である。甚だしきは、社会人になることと会社員になることを、ほとんど同値のように議論しているモノもある(確かに、字面は似ているが)。

昭和30年代後半の日本社会の状況は、当時小学校低学年ではあったものの、それなりに実体験として記憶している。当時の日本社会においては、少なくとも社会人になることと、会社員にになることは同値ではなかった。高度成長の恩恵を受ける人々も多くなってはいたものの、中卒で個人経営の商店や工場に住み込みで「就職」する人も多かった。もっというと、街中で顔を合わす「働いている大人」は、そういう人の方が多く、決して会社員ではなかった。

当時の日本は、まだまだ高度成長を続ける、今でいう「新興国」であった。伸び盛りではあるが、エスタブリッシュされていない国。高校進学率は、昭和30年前後にやっと5割を越え、東京オリンピックのあった昭和39年に至って7割近くにまで上昇した。昭和30年代は、まだまだ高校が高等教育だった時代なのだ。ちなみに大学進学率は、昭和30年代を通しても、10〜15%の間で推移している。大卒は、まだまだエリートだったのだ。

この時代、企業に就職できたのは、ブルーカラーやノンキャリで高卒、キャリアは大卒以上である。さらに、女性蔑視の時代だったので、女性の雇用は少なく、特にキャリアではほとんどなかった。これらを考慮すると、中堅企業まで含めたところで、「会社員」として就労し社会人になる層は、新卒者の中では半分にも満たない少数派であったことがわかる。それが、たかだか4〜50年前の話なのだ。記憶にある人、実際に当事者として体験した人も、まだまだ多いはずである。

そう思って書籍や文献等に当ってみると、会社員の歴史について記述したものが至って少ないことに気付く。経営史等でも、組織構造、管理構造などについて分析した視点を持つものはすくない。もちろん、高度に専門的な学術書や論文などはあるのだろうとは思うが、簡単に入手・読破できるものではない。幸い、労務管理や人事制度に関しては比較的その推移に関する情報が得やすいので、これらにより日本における「社員の歴史」の実態を解き明かしてイキたいと思う。

1. 商法成立まで(〜1899)

事業を行なう集団をしての「企業」は、日本でも古くから存在した。飛鳥時代から続く、社寺建設の金剛組などというツワモノもあるが、江戸時代から200年以上続いている企業はけっこう多い。しかし、それは「会社」ではない。「会社員」という存在が生まれるためには、まず「会社」が規定される必要がある。これは、日本においては自然に生まれた概念ではなく、条約改正を前提に近代国家としての用件整備を急いでいた明治政府が、欧米から移入した概念である。

「会社」という言葉が最初に用語として登場した時には、いまでいう「組合」概念を示す言葉であった。いわば広い意味の「法人」であり、その指し示す対象は経済活動を行なう商事目的の法人にとどまらなかった。1890年に公布されたものの施行されずに終わったボワソナードの「旧民法」には、これを反映した「会社」規定がある。実態としては、それ以前から、いわゆる商事会社としての「会社」は存在していた。

特に、1880年代には起業ブームと呼べるような動きが全国的に起こり、銀行、鉄道、繊維、鉱山などで、次々と株式会社により資金調達し企業を設立する動きが続いた。これが、日本の産業革命の起爆剤となったことはいうまでもない。しかし、この段階ではまだ会社を規定する法律はなく、特定の法律(国立銀行条例等)や、個別の許認可によって設立されていた。従って、この時点では共通の「会社たる要件」を抽出することは難しい。

すなわち会社の実態としては、資金調達と経営計画立案にとどまり、実際の実働部隊まで抱え込んだものではなかった。ボードと経営企画部門だけ、いわば今でいう持ち株会社のような存在である。この典型が、当時の主要産業の一つである鉱山である。実際にヤマの現場は、江戸時代同様飯場の親方が仕切り、そこで働く鉱夫たちも親方との関係性しか持っていない。ヤマには、鉱山会社のカゲはない。

鉱山経営を行なう会社は、実務を全て親方に委託していた。基本的には、採掘権の確保と、資金の提供を行なうのみ。これなら、本社機能は極小で済む。同様に、紡績工場などにおいても、現場監督としての親方に業務そのものを任せてしまうことが多かった。当時の会社は、究極のファブレスである。鉄道などでも、地方の要員は現地調達で、たとえば駅員は駅長が雇用しているなど、必ずしも社員ではないスタッフがたくさんいた。

日本においては、江戸時代から商品経済が発達し、独自の市場や経済習慣が根付いていたため、実際の現場の管理運営は、その延長上で充分対応できたし、そのほうが合理的だったのだ。新たに必要だったのは、巨額の資金調達と、海外輸出等新たな販路への対応ぐらいであり、そこをフォローするものとして会社が導入されたのである。このような段階では、会社員という存在は、それだけで超エリートであり数的にも少なく、社会一般レベルとは隔絶した存在であった。

このように、産業革命による経済活動の高度化が進行中であるとともに、ヨーロッパ的な階級社会を基調としていた19世紀の日本においては、会社員という仕事自体が、一般からは隔絶した上流・中流階級の存在であった。社員というのは、応分の経営責任も含めて担う、今でいえば「役員」のような存在であったということができる。従って、今でいうような「社員」の歴史は、少なくとも20世紀における流れを見ればことたりることになる。


(13/01/25)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる