essay 784

「社員」の歴史(その2)





2. 富国強兵-20世紀の明治

明治維新以来、日本は不平等条約の改正を宿願として近代化を進めてきたが、1895年の日清戦争終結を一つの転機として、富国強兵により列強に侵略されない国づくりを行い、脱亜入欧を目指すことになる。これを支えたのが、当時の金額で三億円を超える戦争賠償金である。この資金は、来るべき列強との利害対立に備える軍備拡張に使われたが、それはまた、直接・間接に、国内における重工業への投資を促すことに繋がった。

日清戦争では、ロジスティックスが陰の戦力として大きな役割を果たした。このため、来るべきロシアとの対立に備え、ロジスティックスの充実が叫ばれた。この影響として、鉄道、海運ブームが全国で沸き起こったのは、まさに軍備支出が国内産業に波及した例といえる。また、賠償金を資金とした軍需産業への投資も積極的に行なわれた。兵器国産化のための鋼鉄生産は、1901年の八幡製鐵所操業開始から本格化する。

この頃になると、国内の投資資金の動きも活発化し、鉄道・海運に次ぐ株式ブームを求めるようになる。1910年代に入ると、これらの資金を元に全国に水力発電所が作られ、電力ブームが起きる。それまでの蒸気機関とは異なり、電気を利用した動力は、大型の装置産業でなくとも利用可能である。これらの豊富な電力供給の開始により、全国的に工場の電化が一気に進み、中堅工場でも電化・機械化が可能になった。

これにより、中規模・小規模の工場でも一気に機械化が進み、それまでのマニュファクチャ的な、人間が主で機械が従という生産体制から、基本的に機械が生産を行い、それを人間が操作するという、近代的な工業生産へと、工場の生産様式が大きく変化した。このように、明治末期の十数年のあいだに、工場の機械化と、そこで使用する生産機械の内製化、さらにはその材料となる鋼鉄の生産が行なわれ、鋼鉄から生産機械まで一貫して国内で製造する、重工業化の基礎が作られることになった。

このあたりの流れを、当時の最先端の工業製品であった鉄道車輌(機関車)の動向を通じて見てみよう。1900年前後においては、機関車はまだ英・米・独など先進工業国からの輸入によって賄われていた。世紀の変わり目の頃に使われていた主力機関車でみると、幹線急行用旅客機関車の6200(D9)形式が1897年から、貨物・勾配区間用機関車の2120(B6)形式が1898年から、それぞれ英国から輸入開始されている。

19世紀にも国産の機関車は作られていたが、この頃の国産機関車は、輸入した予備部品を活用して組み上げた、いわばノックダウン的なものに過ぎなかった。これならば、組立修理ができれば製作可能である。しかし20世紀に入ると、1902年から作られた230(A10)形式のように、1880年代の設計による古い輸入機関車をコピーし、国産の材料や部品を利用して自前で機関車を製造するレベルにまで、技術水準は高まった。

これが1910年前後になると、輸入はするものの、すぐに模倣し国産化することが可能になる。輸入は、最先端技術習得のためのプロトタイプ獲得という色彩が強い。8700形式は、1911年に英国から12輌が輸入されたが、1913年に汽車製造会社で18輌がコピー製造された。同じく8850形式は、1911年にドイツから12輌が輸入されたが、1913年に川崎造船所で12輌がコピー製造された。

昨今、中国が輸入した日本の新幹線やドイツのICEのコピー版を作っていると問題になったが、何のことはない。昔は、日本もやっていたのだ。しかし、すぐに「制式機」と呼ばれる、独自設計の標準型国産機が登場することになる。貨物用の9600形式は1913年、旅客用の8620形式は1914年に、それぞれ第一号が登場した。ちなみに9600形式は、1976年3月、国鉄最後の蒸気機関車となったことでも知られている。いかに急速に産業基盤が整備され、国内の工業化が進んだかを理解することができる。

明治時代末期は、このように急速に工業化が進み、大型の工場が建設された。とはいっても、まだまだ全国的に見た雇用全体に占める比率は小さかった。それまで、鉱工業の従事者といえば、どちらかといと出稼ぎ的色合いが強く、必ずしも近代的な雇用とはいえなかった。重工業化とともに、農村から家族ぐるみで離れ、専業の鉱夫や職工として働く人が目立ってくる。大正時代になると、都会の労働者人口も急激に増え出す。

明治末から大正初期にかけての十数年は、日本の経済の発展・高度化においては極めて重要な時期である。その後の日本と中国の歴史の流れを分けたのも、この十数年である。しかしその影響は、まだ社会構造全体に及ぶものではなかった。従って「社員」の歴史を考える上では、19世紀明治期と、大正以降の時期とを考えればよく、その間の十数年については、両者の移行期、過渡期として捉えることが可能である。


3. 職工からブルーカラーへ

社員の歴史という視点から見た、20世紀初頭のエポックメイキングな出来事としては、「職工」の成立と地位変化をあげることができる。それまでマニュファクチャ的な工場生産が主流だった時代においては、工場での働き手は、差別的な表現になるが、まさに機械と同じような意味での「労働力」でしかなかった。従って働く側でも工場での労働を「職業」とは考えず、あくまでも出稼ぎや季節労働のような「現金稼ぎ」の手段としか見ていなかった。

それとは全く違う文脈の中から、重工業の発展とともに生まれたのが、一時的な出稼ぎとしての工場労働者ではなく、プロの職業人としての「職工」である。これは日露戦争期に確立し、その後1910年頃までに一般化した。単身ではなく、家族とともに生活する。親方による間接管理ではなく、直接、工場と雇用契約を結ぶ。従属しない個である。まさに、江戸時代以来の職人の伝統が、近代工業の工場の中で復活したということもできる。

これは当時の重工業の工場が、オートメーションの流れ作業ではなく、各部門毎にプロの職人がいて、その技を発揮することが必要だったからだ。今でも町工場では見られるが、プロの職人が熟練した技を発揮し、旋盤などの工作機械を駆使することで、驚くような精度の加工が可能になる。NC制御などなかった時代においては、この暗黙知としての技術こそが、製造業における付加価値の源泉であった。

このため技術のある職人は、大企業の大工場からも、直接高給で雇い入れられた。当時「渡り職工」と呼ばれたように、技術レベルが高ければ高いほど、自分の腕一本、技術を頼りにより、よい条件の職場を求めて様々な工場を転々とするのが普通だった。当然、その待遇は契約制である。では、そういう職工のキャリアパスはどのようなものだったのだろうか。当然、社員として終身雇用されるブルーカラーのそれとは大きく違う。

基本は、職人的なキャリアパスである。最初は、町工場などで徒弟的に修行し、技術を学ぶコトが多かった。一旦基本的な技術を身につけた後は、いろいろな工場を転々としながら、ステップアップしてゆく。もちろん、最終的には独立して町工場を持つことがゴールだったが、自営の職人を、腕を見込んで工場が雇い入れることも少なくなかったため、その経歴は多種多様であった。

鉱山でも、機械の導入とともに、その操作や整備に各種専門職人が必要となったため、同様に渡り職工が雇用された。これと同時期に、採掘作業でも飯場による親方請負制が解体し、坑夫が鉱山会社と直接雇用関係を結ぶシステムに代わった。しかしここでも、腕のたつ坑夫は、渡りとして拠りよい条件の現場を求めて、転々と移動することが普通だった。分野はいろいろあっても、技術のある職人は、腕一本でいい稼ぎができる時代であった。

これはある意味、この時代の日本の工業技術の限界を示している。蒸気機関車の整備など、経験と技術に裏打ちされた職人芸の世界で、マニュアル化のしようがない。また旧日本軍の軍用機のエンジンは、レーシングエンジンのように職人がシリンダやピストンを擦り合わせて作ったので、同じエンジンの中でもパーツに互換性がなかった。このように規格化が不充分であったため、名人の職人芸なしでは、生産が不可能だったのだ。

これが変化するには、戦争を挟んで1930年代から1950年代という長い年月が必要だった。1930年代の軍需産業ブームによる好景気とともに、軽工業部門では製品の規格化や、生産の流れ作業化が始まった。しかし、重工業、機械工業分野では、その足並みは遅れ、戦時体制化の軍需生産の足を引っ張る結果となった。これらの問題が解決し、社員としてのブルーカラー層が確立するのは、高度成長期を待たなくてはならない。


(13/02/02)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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