essay 785

「社員」の歴史(その3)





4. 日本におけるホワイトカラー層の誕生とその雇用

会社が生まれれば、そこには何らかの形で従業員がいる。そういう意味では、経営管理を行なうホワイトカラー層は、日本で会社という形式をとってビジネスが行なわれるようになったのと期を一つにして現れたということができる。それは、明治初年にまで遡ることになる。しかし、その時代の会社のあり方が、その後産業革命以降の20世紀のそれと大きく違うように、ホワイトカラー社員のあり方も独自のものがあった。

端的にいえば、初期においては、ホワイトカラーは従業員というより、今でいう役員のような存在であり、即、経営者としての手腕が問われる立場であったということができる。いわゆる事務管理作業を専業で行なうのではなく、自営業主のように、自らの責任と判断で、全責任を負ってビジネスに取り組む。このような社員のあり方は、日本のみならず、19世紀においては世界的に見られる形態である。

特にこの時代は、国内でのマネジメント層の養成機関が不充分だった。技術者や官僚の養成は1880年代から進んだが、ビジネスマンの養成が軌道に乗るのは1890年代以降になる。会社そのものは、1870年代から創業されていたため、このギャップを埋めるものとして、海外に留学してマネジメントや業務に関する専門知識をつけた人材は、極めて重用され、引く手あまただった。このため、優秀で実績を残した人材ならば、次々新しい会社からスカウトされる、欧米のような雇用環境になっていた。

しかしその一方で、優秀な人材を囲い込むべく、厚遇により自社内にとどめ、引き抜かれないようにすることも増えてきた点は見逃せない。三菱、三井などの財閥グループでは、優秀な人材は、グループ内各社のトップマネジメントを歴任し、新工場の立ち上げや新事業の展開、あるいは不振に陥った事業の建て直しや労働争議の解決など、グループ内転職を繰り返しながら、キャリアアップしてゆく事例も多い。

このように19世紀においては、ホワイトカラー層は、実績のある人材を、その実績や経験を評価して雇用する、ヘッドハンティング方式が中心であった。帝国大学を卒業しても、官僚や技官にならず、民間企業に就職するという新卒者の採用もあったが、それは将来を期待しうる有望な人材を縁故により採用し、確保しておくというスタイルが中心であり、この場合も人材中心というスタンスは変わらなかった。

20世紀に入り、産業革命が進行すると、重工業を中心に企業規模が飛躍的に拡大した。これとともに、工場や鉱山など現場の経営・人事管理を、直接本社スタッフが行なうようになっていった。このため、中間管理職の増大が起こる。ブルーカラーについては、まだ期間契約的な色彩が強かったものの、事務管理を行なう専門社員については、一定の質をもった社員を、一定量確保する必要性が生まれた。

ここに、最初から経営者もしくはそれに準じる層として雇用されるのではなく、システマティックに経営を担う管理者層として採用され、その社歴の中から、経営層へとステップアップしてゆくキャリアパスが生まれた。いわゆるキャリア社員、日本におけるホワイトカラー層の誕生である。この層が、元祖「正社員」層となった。これはまた、偏差値エリートによる、テクノクラート層の形成でもあった。

1910年代には、日本の経済の重工業化が進むことにより、ホワイトカラー人材の需要が飛躍的に増大した。これと同時に、第一次大戦による好景気が起こり、日本経済の規模そのものが急激に拡大した。このため、もともと数の少ない大卒者ヘの求人は極端な売り手市場となった。これに対応すべく、青田刈りとして有意な人材を確保すべく始まったのが、ホワイトカラーにおける新卒定期採用である。

新卒定期採用は、それまでの実績主義、能力主義とは異なり、ひとまず優秀と思われる人材を、数だけ確保しておこうという人事政策である。このため定期採用と同時に、経営幹部をキャリアパスの中から社内で育成する戦略がとられるようになった。これにより、ホワイトカラーに対して、終身雇用、年功賃金制度も導入されることになったのである。しかしこれらの制度の対象は、少数のエリートたる大卒者のみが対象であった。

このように大卒エリートに対する人材需要は、大正期を通して活性化し、日本型人事制度の雛形といえる手法も登場した。しかし人事をめぐる状況は、世界大恐慌の到来とともに一変する。1930年代前半には、「大学は出たけれど」といわれたように、大恐慌以降の景気低迷の中で、大卒者に対する求人は大きく落ち込み、ホワイトカラー労働市場の構造は一気に買い手市場へと変化した。

そこでとられた戦略は、ひとまず内部育成の対象となる新卒者採用は行なうものの、1920年代までのような「数を確保すること」を目的とした不特定多数の公募は行なわれなくなった。その代わり、本当に優秀で社にとって有意な存在たりうる人材だけを確保する、縁故・紹介型の採用が中心になる。当時の大卒者は社会的エリートであり、数も少なく、個々の人材を見極めることが容易だったため、このやり方でも充分機能した。


5. 日本型雇用制度の成立(1930・40年代の状況)

日本型経営に基づく、日本型雇用によって生じた「社員」のあり方。その特質を見極めるには、日本型の雇用制度がどのようにして成立したかを知る必要がある。1920年代までにその萌芽的要素は現れていたが、それが確立する上では、世界大恐慌への対応と、その後の経済回復プロセスが大きく関わっている。ここでは、日本型雇用と対比して捉えられることの多いアメリカ型の雇用との比較により、日本型雇用の成立過程を見て行きたい。

アメリカ型の雇用とは、一言で言えば「形式知的で明確な雇用契約に基づく雇用」である。一方日本型の雇用とは、「暗黙知的で曖昧な雇用契約に基づく雇用」ということになる。1980年代のジャパンバッシング以来、あたかも文明の衝突のごとく、極めて対立的に捉えられてきた両国の雇用形態であるが、このような違いが生まれるまでには、実はそれほど深い歴史があるワケではない。

20世紀初頭においては、産業革命で先行した西欧の先進資本主義国と比べ、新興工業国として登場してきた両国の状況は、それほど大きくは違っていない。その特徴には、短期の雇用契約、競争的な労働市場、体系的管理の欠如などがあり、特に工場労働者において典型的に見られる。これは伝統的な階級社会に裏打ちされた、経営者階級と労働者階級という構造を持たなかったからであり、日米の状況はそれほど差がなかった。

労働者は、より良い条件を求めて職場を変えるとともに、経営者も景気変動に合わせて自在に雇用・解雇を繰り返した。それが、双方にとってメリットだったのだ。労働者に対する人事権も、工場長や親方など、現場の長が持っていた点が共通している。このあたりは、前回「2. 富国強兵-20世紀の明治」「3. 職工からブルーカラーへ」の中で述べてきた通りである。

その後1920年代までの変化も、両国で共通したものがある。どちらも、第一次世界大戦の戦場となった欧州から遠かったため、大戦景気として未曾有の好況に湧いた。経済成長とともに雇用は増大し、労働市場も売り手市場化したため、待遇改善が求められ、経済成長の成果を労働者にも還元するような形で、労働者の待遇を改善する「企業福利主義」政策が行なわれた。

しかし、その後訪れた大恐慌への対応が、その後のあり方を大きく変えた。両国の差異は、この時から始まったものである。アメリカでは、企業福利主義を捨て、大規模な人員整理により、純粋に企業の力で恐慌の影響を乗り切ろうとした。その際、産業別組合が合法化されたため、そこに労働運動が集約され、労働者側が対抗、その結果明確な雇用契約主義の下地が出来上がった。

一方日本では、折りから起こった軍需景気で恐慌からの復興が早かった。1930年代後半には、日本経済は戦前における最高水準のGDPを記録するまでに至った。ちなみに「もはや戦後ではない」の名文句は、GDPが戦前の最高水準のレベルにまで復活したことを指し示している。雇用状況も改善され、企業福利主義的な考えかたは、軍需の恩恵を受けた財閥系などの大企業を中心に、からくも温存された。

その後、第二次世界大戦の戦時下において、戦時体制を固めるための法制度整備が行なわれたが、これは、大恐慌からの回復過程で、両国で行なわれてきた慣習をベースに制度化したものである。このため、戦時下を通して両国の制度の違いを固定化することになった。まさに、大恐慌への対応が日本型の雇用を生み出したということができる。


(13/02/09)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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