essay 787

日本人と中国人





このところ、国際情勢の絡みもあってか、中国に関する議論が盛んである。しかし、その多くが「日本の常識」を前提にして、中国の状況を語っているに過ぎない。確かに中国は地理的には近いが、日本とは意識や価値観が大きく異なる。ぼくは中国の専門家でもなんでもないが、それなりに中国とビジネスをしたり、中国を訪問したりしたことはある。それぐらいの経験でも、日本と中国は全くバックグラウンドが異なることはすぐワカる。

ある意味、日本と西欧も突き詰めれば価値観が相容れない部分はある。しかし近代の日本が、西欧を「追いつき追い越せ」のリファレンスにしてきた分、理性では理解できる部分も多い。一方、中国はヨーロッパが生まれる前から、独自の文化・文明を構築し、それを誇ってきた。中国からすれば、日本は万里の長城の北側に住む夷荻の一種族なのだ。西欧も、その西の果ての種族に過ぎない。こういう根本的な構造を知らないまま、中国を語ろうとする人のなんと多いことか。

そこで、限られた経験ではあるが、自分の感じた範囲の中から、中国と日本はどう違うのかについて考察してみたい。自画自賛的になるが、専門家が豊富な知識や実体験を元に語るのと違い、自分が体験した範囲から会得した情報である。中国に関しては、ことさら特別な経験をしていない以上、誰でも経験しうるレベルである。このほうが、より身近で理解しやすいこともあろうと思い、まとめてみることにした。

やはり、なんといっても基本は個々人の持つ意識である。日本人の意識といえば、このコーナーではもはや定番となった感があるが、一般庶民のレベルでは「甘え・無責任」を基本としている点が特徴である。一方、中国では、ユーラシア的な「自立・自己責任」の意識が何より強い。これは、神との契約の下で個々人が確立する西欧的な「自立・自己責任」とは違い、「自分が腹をくくれば、何をやってもいい」という点に特徴がある。

その典型は、ロシア的な考えかただ。ロシア語で自由は、「スヴァボードヌイ」と言うが、この単語は元々「暇な」とか「空っぽの(○○のない)」とか「楽な」といった意味の言葉である。「近代的な個人」が確立しなかったロシアでは「自由」の概念が西欧とは異なるのだ。自己責任も、この自由に近い感覚である。これは中国も共通している。もしかすると「タタールのくびき」で、中国的な概念が伝播したのかもしれない。あるいは映画「マッドマックス」の世界のように、大陸国家特有の意識かもしれない。

さて日本と中国の違いでわかりやすいのは、庶民が「お上」に求めるものの違いである。中国の庶民にとっては、「お上」は利用するものであって、その命令に従うモノではない。みんながその「お上」は利用しがいがあるとおもって、食い物にしている間は、権威が保たれる。格好よく「天命」とかいっているが、天命の実態は、民衆がおいしく利用できるかどうかなのだ。まさにみんなが認めた「結果の権威」でしかない。

日本の庶民にとっては、「お上」はみんなで崇め奉ることで、権威が保たれる存在である。それは、絶対的な権威を庶民が必要としているからだ。ひとたび権威が確立すれば、そこに責任を押しつけることで、おいしい思いができる。自分が「甘え・無責任」に過ごすための責任の駆け込み寺として、「お上」は存在する。したがって、権威のための権威として「お上」のブランドが成り立つことになる。日本では、自分が無責任になれるために権威を認めているのに対し、中国では、そもそも権威など認めていない。

日本は権威を利用する分、権威を認め忠誠心がある。お上の権威が高ければ高いほど、より多くの責任、より高度な責任を押し付けられるからだ。さらに、権威の寿命を少しでも長く保たせることが自分のメリットになる。「暴力装置」を持たない徳川幕府が、あんなに長期にわたり安定的な権威を保てたのも、人々が「葵の紋所」を無責任の免罪符として欲し認めていたからに他ならない。「スマイル0円」ではないが、ちょっとへーコラするだけで無責任でいられるなんて安いもんである。

中国は本質的には全く権威を認めず、「俺は俺」でしかない。そもそも忠誠心などという発想はない。「忠」に義理堅くルールを守るという意味を与えたのは、日本の武士道である。中国ではそれこそ金の切れ目が縁の切れ目で、おいしくなくなった瞬間に、みんな蟻の子を散らすように逃げ出す。それは悪いことではなく、自分の身を自分で守るための、個人としての自分の正当な権利なのだ。中国といえばパクり商品がおなじみだが、パクりに代表されるコンプライアンスのなさは、ここに原因がある。

この結果、面子と実利のどちらを重視するかという違いが生じてくる。これは、中国の人や組織と付き合って、気付かれている方も多いと思うが、日本と中国を決定的に峻別するポイントとなっている。中国においては、まさに中国的な自己責任の世界である以上、実利はあくまでも自分で獲得するものである。実利を得られないのは、本人がアホでポカをやったというだけのことだ。その反面、自分だけではどうしようもない、相手との関係性により成り立つ面子を重視する。

この構造は、中国の歴史とは切っても切り離せない関係にある、朝貢のあり方を見ればわかる。確かに朝貢する側は、皇帝に対しその国の名産など何らかの貢ぎ物を持っていく。しかし、貢ぎ物に対して皇帝はそれをはるかにしのぐおみやげを見返りとして渡す。「朝貢貿易」という言葉があるように、経済的に見れば、皇帝は赤字、夷荻は黒字である。それでもこのスタイルが重視され、継続したということは理由がある。皇帝が得たいものは面子であり、夷荻が得たいものは実利なのだ。

日本においては、お上の存在は、その威を借りて威張ったり、責任を押し付けたりして、自分が楽するのが目的である。そもそもお上に責任をブン投げるのだから、面子は必要ない。紋所を見せつけてその威を借りる以上、自分の面子へのこだわりはありえない。それどころか、実利が得られるのであれば面子などどこ吹く風の知らん振り。前言を翻そうが、手のひらを返したように態度を変えようが、誰もそれを批判しない。みんな、自分達が無責任なことをよく自覚しているのだ。

面白いのは、近代以前の戦争のあり方だ。どちらの国でも、庶民を動員した軍隊はマトモに戦わない。中国では、戦う前に決着がつく。兵隊に忠誠心がないから、待遇のいい方にすぐ寝返ってしまうのだ。従って、中国の軍隊では料理担当の主厨兵と軍楽隊の地位が異常に高かった。ウマい料理を食わせ、ニギヤカにしている軍隊には、敵からも寝返って兵隊が集まってくる。毛沢東の共産党軍が国共内戦に勝利したのも、農民から略奪しないばかりか、兵として加わったものには、たらふく飯を喰わせたからといわれている。

日本では、戦国時代の合戦が面白い。歴史小説などでは、緊迫した戦闘が続いたように見えるが、実態は大きく違う。パシリみたいに、一番立場の弱い武将同士が仕方なく戦い始め、勝ち負けが見えてくると、他の武将はいっせいに「勝ち馬に乗る」。戦わずして勝ち組になるのが、戦いのコツである。みんな戦いが終わってから首だけ狩ってくるので、「死人の首には褒賞なし」という指令もたびたび出されている。これを変えたのが、横から敵を皆殺しにしてしまう、信長の鉄砲隊である。

こうやって見て行けばわかるように、これはどっちが良いとか、どっちが正しいとかいう問題ではなく、「違う」だけなのだ。それぞれの国では、それぞれのやり方にあわせればいいだけである。中国に日本の価値観を押し付けようとしても、西欧の価値観を押し付けようとしても意味がない。幸いにも、中国的な発想をする人は、日本にも西欧にも少数だがいる。こういう人は中国でウマく行く可能性が高い。そういうリソースを前に出し、「郷に入れば郷に従」えば良いだけのことである。


(13/02/22)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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